【臨済録】やさしい現代語訳・解説 序文(最終回)

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、唐突ですが、最終回です。

 

①読み下し文

黄檗山頭(おうばくさんとう)に曾(か)つて痛棒(つうぼう)に遭(あ)い、大愚(たいぐ)の肋下(ろくか)に方(まさ)に築拳(ちくけん)を解(よ)くす。饒舌(にょうぜつ)の老婆、尿牀(にょうじょう)の鬼子(きす)。這(こ)の風顚漢(ふうてんかん)、再び虎鬚(こしゅ)を捋(ひ)く。巌谷(がんこく)に松を栽(う)う、後人(こうじん)の標榜(ひょうぼう)。钁頭(かくとう)もて地を掘り、幾(ほと)んど活埋(かつまい)せらる。箇(こ)の後生(こうせい)を肯(うけが)って、驀口(まっく)に自掴(じかく)す。辞(じ)して几案(きあん)を焚(や)いて、舌頭(ぜっとう)を坐断(ざだん)す。是(こ)れ河南(かなん)にあらずんば、便(すなわ)ち河北(かほく)に帰せん。

院は古渡(こと)に臨(のぞ)んで、往来を運済(うんさい)し、要津(ようしん)を把定(はじょう)して、壁立万仭(へきりゅうばんじん)。奪人奪境(だつにんだっきょう)、仙陀(せんだ)を陶鋳(とうちゅう)し、三要三玄(さんようさんげん)、衲子(のっす)を鈐鎚(けんつい)す。常に家舎(かしゃ)に在(あ)って、途中を離れず。無位(むい)の真人(しんにん)、面門(めんもん)より出入(しゅつにゅう)す。両堂斉(ひと)しく喝(かっ)す、賓主歴然(ひんじゅれきねん)。照用(しょうゆう)同時、本(も)と前後無し。菱花(りょうか)像に対し、虚谷(きょこく)声を伝う。妙応無方(みょうおうむほう)にして、朕跡(ちんせき)を留(とど)めず。

衣を払って南邁(なんまい)し、大名(だいめい)に戻止(れいし)す。興化(こうけ)、師承(しじょう)して、東堂(とうどう)に迎え侍(じ)す。銅缾鉄鉢(どうびょうてっぱつ)、室を掩(おお)い詞(ことば)を杜(と)ず。松老(お)い雲閒(しず)かにして、曠然(こうねん)として自適(じてき)す。面壁(めんぺき)未だ幾(いく)ばくならざるに、密付将(みっぷまさ)に終えなんとす。正法(しょうぼう)誰にか伝う、瞎驢辺(かつろへん)に滅す。

円覚(えんがく)の老演(ろうえん)、今為(ため)に流通(るずう)す。点検(てんけん)し将(も)ち来たる、故に差舛(しゃせん)無し。唯(た)だ一喝を余して、尚(な)お商量せんことを要す。具眼(ぐげん)の禅流(ぜんる)、冀(こいねが)わくは賺(あやま)って挙(こ)すること無かれ。

 

②私訳

黄檗禅師にあって痛棒に遇い、大愚の脇腹に拳骨(げんこつ)を突きあげた。おしゃべり婆さんには「小便垂れ小僧」と罵(ののし)られ、「この気違いめ、虎の髭を引っ張りおる」と黄檗に言われた。岩山に松の苗木を植え、後人への目標とした。鋤を振るって地面を掘れば、危うく黄檗は生き埋めされるところ。黄檗はこの若者を認めたせいで、自分の口を叩くはめに。黄檗を辞す際、黄檗は形見の机を焼き、臨済が天下の舌頭を坐断すと予言した。行き着く先は、河南でなければ、河北と決まった。

 

その寺は古い渡し場のそばで、人の往来は盛んだが、要所をガッチリ押さえて、壁は七万尺の高さに堂々と高くそびえ立つ。学僧の時空を奪い、優秀な弟子を練り上げた。三要三玄で、修行僧を叩き上げた。常に即今に在ったが、俗世間を離れなかった。無位の真人は面門より出入する。両堂の首座は同時に喝し、問われると「賓主は歴然」と答えた。相手を見抜き(照)、対して教授する(用)のはほぼ同時であった、照と用に本来前後は無いのだ。鏡はどんな像も映すが、映し跡は残さない。大きな谷に声がこだまし、学僧に教えを響かせるが、後には全く個人の跡は残さぬように、臨済禅師は指導したのだ。

 

旅支度をして南に行き、大名府に留まった。興化(こうげ)が弟子になり、師を東堂に迎えてお仕えした。銅の水瓶に鉄の飯椀、臨済禅師は部屋を閉ざし口を閉じた。松は老い雲は穏やか、悠々自適を楽しんだのだ。面壁未だ幾ばくもない折に、密やかな伝授はまさに終わろうとしていた。正法は誰に伝わったのか。盲のロバ(三聖・さんしょう)のところで絶えたのだ。

 

円覚宗演禅師は、今この本を流布してくれた。細かくチェックしているので、内容に間違いはない。ただ紙面には載らない一喝だけは、別に吟味してもらいたい。眼のある禅者たちよ、どうか読み間違いだけはしないでほしい。

 

現場検証及び解説

 

いよいよ最終回です。

最終回なのに、なぜ序文なのか。それは私の思い付きで、岩波文庫の目次を逆に訳していったからです。本来は、序、上堂、示衆、勘弁、行録、塔記の順番に並んでいます。

ところが、序文を読んでみて、歯切れの良い、リズミカルな文章ではあるが、主語や目的語が省略されており、なんのことかよくわからない。しかも、その後いきなり、臨済禅師の晩年の法話が収録されており(上堂・じょうどう)、覚醒をした過程が語られている行録(あんろく)は後回しにされている。

これは、逆に訳していった方がいいのではないか、という私の安易な考えから、そのようにしていったのです。

最後にもってくると、序文の内容もよくわかります。ただ、時間が経ったので、「なんだっけ?」と見直さないとわからない部分もあったりして(笑)。

この序文には、臨済先生の有名な禅語、有名な場面が散りばめられています。「奪人奪境」「無位の真人、面門より出入す」「家舎に在って、途中を離れず」「三要三玄」「賓主歴然」「照用同時」・・・。

いずれも見事な表現なので、そのままの形で訳に挿入したい誘惑にかられますが、それだと意味が深く伝わらないので、わかりやすく意訳しました。

 

ただ紙面には載らない一喝だけは、別に吟味してもらいたい。眼のある禅者たちよ、どうか読み間違いだけはしないでほしい。

これが重要なことだと思います。臨済先生が言いたかったことは、この喝に集約されると思います。

喝で表現されたものは、即今です。時空間という、いわば平面に生きる私たちにとって、垂直軸を激しく指示する、それが喝です。時空間に生きる私たちの背後には、常にこの無時空間が存在しているらしい。ソレをダイレクトに知らしめるために、臨済先生は「喝」と指示したのです。

そして、それをきっかけにして学僧にソレを直(じか)に体感してほしかったのでしょう。

その現場における「喝」は一体どんなものだったのでしょう。紙面を通じてしか知りえない私たちには、そこがもどかしいところです。かといって、「ああだろうか、こうだろうか」と思考を逞(たくま)しくするのも、臨済先生の教えに反するでしょう。

しかし、こうやってテキストにまとめてしまうと、「読む」わけですから、「考えるな」といっても無理な話で、そこに誤解が生じる可能性があるわけです。編者はそれを案じています。当然のことでしょう。

瞑想修行が中途半端な方が解釈を行うと、妄想解釈になってしまい、そこに誤解が生じます。私が行った一連の解釈にもその誤解が紛れ込んでいる可能性はあります。ぜひ、皆さんの方でチェックしていただいて、ご指摘くさされば助かります。

 

全く話は変わりますが、ドキュメンタリー映画「A」「A2」を観ました。サリン事件の最中、残されたオウム真理教の信者に密着取材した、森達也監督の傑作です。

見終わった感想ですが、サリン事件を起こした一部のグループは糾弾されて当然だと思いますが、関わらなかった一般の信者までが、地域住民、公権力やマスコミから過剰なまでに糾弾されているのは、ちょっと気の毒な気がしました。

もちろん、サリンというような毒ガスが関係していたので、神経質になるのも無理はないとは思いますが。

あの時期、日本中がオウム真理教を恐れ、かつ熱狂しました。私もそのひとりです。振り返ると事件の特異性に惹かれてテレビにかじりついていただけでなく、彼らがやっていること(犯罪以外)に妙な不安を感じていたからだと思う。

彼らがやっていることとは「真理の追究」です。「あんな連中がやっていることは全部まやかしだ」と言ってしまえば、スッキリします。しかし、私もあれから年を重ね、今では「真理の追究」をやっている身なので、映画を観ていて共感する部分は正直ありました。もちろん、頭に器具を装着したり、塩水を何リットルも飲み吐いたり・・・ええええ!という場面もありましたが。

しかし、それ以外はまっとうな修行者に見えました。むしろ、暴走するマスコミ、公権力、地域住民の方に恐怖を覚えました。一般市民の中にも、通俗性、邪悪なものが隠されているのが垣間見えました。また、一般市民の良識も「A2」では撮影されており、人間の本質はこちらなのではないか、と深く考えさせられました。

そういう意味でも、この映画は一見に値します。

ただ、残された信者にひとこと言いたくなったのは「そんなにグルを盲信しちゃダメだよ」ということ。「自己判断を放棄したらダメだよ」ということでした。

宗教というと、信仰が不可欠だと言われていますが、その信仰が私はどうしても持てません。疑り深い人間なのかな? ですから、スマナサーラ長老が「仏教は宗教ではありません。心の科学です」と言われたのと聞いてホッとしたのです。

お釈迦さまは盲信を禁じられました。エピソードをひとつお伝えして、終わりにしたいと思います。

あるとき、お釈迦さまが説法されました。「今、私が言ったことがわかりましたか? A君(名前失念しました)」A君は答えました。「いえ、まだわかりません」

それを聞いたお釈迦さまはA君を大変褒めました。なぜなら、「自分で確かめてから教えを受け入れる」という鉄則を守ったからです。お釈迦さまですら「私を尊敬するからといって、私の教えを鵜吞(うの)みにしないでください。必ず自分で確かめてから受け入れてください」と言われました。

お釈迦さまですら、こうなのです。「尊敬するなら、言うことを聞け」というグルは相当怪しいので、注意してください。

 

謎解き「臨済録」これで終了します。私の駄文に付き合ってくださった方々、本当に感謝いたします。どうか、あなた方の修行のプロセスが進みますように。お互い良い人間になれますように。生きとし生けるものが幸せでありますように。

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2023 All Rights Reserved.