【臨済録】やさしい現代語訳・解説 上堂6
こんにちは!
今回は、臨済先生の逃げ足は速い。
①読み下し文
是(こ)の日、両堂の首座相見(しゅそしょうけん)して、同時に喝を下す。
僧、師に問う、還(は)た賓主(ひんじゅ)有りや。
師云く、賓主歴然(れきねん)たり。
師は、大衆、臨済が賓主の句を会(え)せんと要(ほっ)せば、堂中も二首座に問取(もんしゅ)せよ、と云(い)って便(すなわ)ち下座(げざ)す。
②私訳
この日、両堂の首座(しゅそ)がばったり出会い、同時に喝を下した。
上堂の際、ある僧が臨済禅師に問うた。
「今日の首座二人に主と客(従)の区別がありましょうか」
臨済禅師は言った。
「主客はハッキリとしている。皆の衆、ワシが言う主客の意味を知りたければ、堂内の二人の首座に聞いてみよ」
と言って座を下りた。
現場検証及び解説
両堂というのは、修行者たちは前堂と後堂に分かれて暮らしているからで、首座というのは、それぞれのリーダーのことです。その二人がある日ばったり会い、同時に喝を下した、という話です。
賓主というのは、客と主人のことで、この場合は主の方が客よりも勝っているわけです。どういうわけかというと、「立処皆真なり」「主人公」などというように、主というのは「即今を保つ人」ということです。それに対して客というのは、「即今を外れた人」です。もう少し言えば、相手の気合に押し負けてしまって、受けに回り時に遅れてしまっているという感じでしょうか。
私は僧堂で修行したことはなく、想像で言っています。異論がある方からは、教えを受けたいところです。
さて、首座が会って同時に喝を下した。しかし、喝がぶつかり合う中で、どちらかがより良く即今を保ち、どちらかがやや即今を外れたようです。保ったのが主、外れたのが客です。
ここまでは説明が付くのですが、これだけの情報では私たち読者には「どちらが主でどちらが客か」は判別はつきません。それを現場で見ていた人には、判別がつく可能性があります。臨済先生は両首座が喝し合うのを目撃したのでしょう。「主客はハッキリしている」と断言しています。
質問した僧は、見ていても主客の区別はつかなかったようです。臨済先生は「両首座に聞いてみよ」と示唆しますが、聞いてみたところで、わかるような種類のことでもないように思います。つまり、そのときわからなければわからないのが、喝VS.喝の戦いだからです。
仏教は正直を信条としていますから、それぞれの首座が正直になり、後輩のことを思って話せばいいのですが、組織を預かる長としての面目を保とうとすると、本当のことが言いにくいのではないでしょうか。
臨済先生ほどの人が、そういう人の彩(あや)がわかっていないとは思えません。私はむしろ、臨済先生は「こっちが主だ」と言い、「語るに落ちる」つまり「即今を離れる」ことを避けたのではないかと思います。つまり、「良い悪い」を言いたくなかったのではないかと思うのです。
臨済先生の言葉を真に受け、両首座に取材しに行った僧はひどい目にあったのではないかと、ちょっと心配です。
「現場で見たこと、感じたこと」がすべてです。それを後からとやかく言うのは野暮というもの。先ほども言いましたが、そのときわからなかったら、アウトです。後から論じようとするのは禅らしくありません。臨済先生はうまく逃げたのです。そうに違いありません。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。