【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆34
こんにちは!
今回は、「渠」(かれ)って誰? なんのこと?
①読み下し文
如(も)し諸方の学人来たらば、山僧が此間(すかん)には三種の根器と作(な)して断ず。
如し中下根器来たらば、我れ便(すなわ)ち其(そ)の境(きょう)を奪って其の法を除かず。
或は中上根器来たらば、我れ便ち境と法と倶(とも)に奪う。
如し上上根器来たらば、我れ便ち境と法と人と倶に奪わず。
如し出格見解(しゅっきゃくけんげ)の人有って来たらば、山僧が此間には、便ち全体作用して根器を歴(へ)ず。
大徳、這裏(しゃり)に到っては、学人著力(じゃくりき)の処は風を通ぜず、石火電光も即ち過ぎ了(おわ)れり。学人若し眼定動(じょうどう)せば、没交渉(もっきょうしょう)。
心を擬(ぎ)すれば即ち差(たが)い、念を動ずれば即ち乖(そむ)く。人有って解(げ)せば、目前を離れず。
大徳、你は鉢囊屎担子(はつのうしたんす)を担(にな)って、傍家(ぼうけ)に走って仏を求め法を求む。即今与麼(よも)に馳求(ちぐ)する底(てい)、你還(なんじは)た渠(かれ)を識(し)るや。
活潑潑地(かつぱつぱつじ)にして秖(た)だ是れ根株勿(こんしゅな)し。擁(よう)すれども聚(あつま)らず、潑(はっ)すれども散ぜず。求著(ぐじゃく)すれば転(うた)た遠く、求めざれば還(かえ)って目前に在って、霊音(れいいん)耳に属す。若し人信ぜずんば、徒(いたず)らに百年を労せん。
道流(どうる)、一刹那(せつな)の間に、便ち華蔵(けぞう)世界に入り、毘盧遮那(びるしゃな)国土に入り、解脱国土に入り、神通国土に入り、清浄国土に入り、法界に入り、穢(え)に入り浄(じょう)に入り、凡に入り聖に入り、餓鬼畜に入って、処処に討覓尋(とうみゃくじん)するに、皆な生有り死有ることを見ず、唯空名のみ有り。
幻化空花、把捉(はそく)を労せず、得失是非、一時に放却(ほうきゃく)す。
②私訳
各地から学人がやってくるが、ワシはその者の機根(仏教の理解力)を見て、3つのパターンで対応する。
もし、中の下の機根者なら、その者の時間を奪って道理は残す。
もし、中の上の機根者なら、時間と道理を共に奪う。
もし、上の上の機根者なら、時間と道理と関係を共に奪わない。
もし、格別の見地を持った者なら、全身で応えて機根は不問じゃ。
諸君、学人が力を尽くして知ろうとした処は、風も通らず、電光石火の如く、パッと見えてサッと消えてしまうようなものだ。
学人がちょっとでも眼をそらせば、チャンスを逃す。思考でとらえようとすると失敗し、思考を働かさせればソレ(即今=仏性=本来の面目)から離れてしまう。理解がある人なら目前のソレ(即今=仏性=本来の面目)を離れはしない。
諸君は頭陀袋(ずだぶくろ)と肉体を担(かつ)いで、脇道にそれ、仏法を求める。しかし、その只今即今の探究者、つまり渠(真我=仏性=本来の面目)のことを知っているか。生き生きとはたらいているが、その根元があるわけではない。手で搔(か)き集めることもできず、散らすこともできない。
捕(つか)まえようとすると遠くに行ってしまい、そうしなければ目の前にあり、その霊妙な音が聴こえる。もし、これが信じられなければ、百年修行したって無駄だろう。
諸君、一刹那の間に、華蔵世界に入り、毘盧遮那国土に入り、解脱国土に入り、神通国土に入り、清浄国土に入り、法界に入り、穢に入り浄に入り、餓鬼畜生に入って、どこを尋(たず)ね歩いても、生もなければ死もありはしない。ただ空しい名ばかりがある。
夢まぼろしの名ばかりの花、そんなものを掴(つか)もうとするな。利害を追うな。いっぺんに放り出せ。
現場検証及び解説
臨済先生は4つのパターンに分けて、法を説くのがお好きなようです。最初に3つと断りながら、4人登場させています(笑)。
ここで重要なのは、「境」と「法」と「人」の解釈です。
以前、示衆(じしゅ)の①で、「臨済の四料揀」を解釈しました。そこで臨済先生は、人と境を組み合わせて(奪人不奪境など)、4つの境地を解説しています。今回の項でも、そのときに使用された「境」と「人」の概念を当てはめていけば、なんとか理屈が通ると思います。
「境」とは時間のことです。即今は無時間です。しかし、人間は思考するので、時間があるように錯覚します。「今何時だろう?」「この講義いつ終わるんだ?」「コロナ禍はいつ頃から始まったんだっけ?」というような思考は働いて、初めて時間が動き出します。それ以前は時間はありません。奇妙に感じられるかもしれませんが、そうなのです。
科学的にも、ミクロのレベルでは時間はないそうです。温度もそうです。ミクロのレベルでは分子の動きにしか還元できません。温度は人間が自分の都合に合わせて作った尺度に過ぎません。色もそうです。ありありとあるように見えますが、眼の網膜と光の関係でそう見えているだけです。人間にとって赤に見えるものも、別の生命体には別の色に見えていることがあるのは、皆さんもご存知だと思います。
話を元に戻します。時間はないという話です。学人が臨済先生のもとに来て、問いを発します。「境を奪う」すなはち「時間を奪う」とはどのような事態でしょうか。
たとえば「祖師方は、どのような法を説かれましたでしょうか!」と学人が問うとします。「説かれた」という言い方は過去形です。仏教の教えでは過去はありません。あるのは只今即今だけ。
臨済先生はおそらく「(只今即今)法など説いてはおらん!」のような答え方をするのではないでしょうか。そうやって、学人の思考を奪い、只今即今(仏性=本来の面目)に気づかせようという魂胆なのです。
「法」は仏教の教えのことだと思います。
さて、三番目に出てくる「人」です。これは空間のことです。即今には時間だけではなく、空間も存在しません。即今、即今と言っていますが、正確には即今即此処(そくここ)です。無時空間が真理なのです。
ところで、空間には関係があります。人と物、人と人の関係が存在します。それは、言ってみれば、思考が関係があるが如く演出するのです。実際には、関係はありません。もう少しわかりやすく言うと、認識には常に此処(ここ)の全体像があります。そこに後から思考が意味付けして、関係を織り込んでいくのです。
臨済先生がもし「人」を、つまり「関係」を奪うのなら、学人の質問に対して「そんなの関係ねえ!」と突き放すのではないでしょうか。そのことにより、学人から関係を奪い、此処に気づかせようとするのです。
その只今即今の探究者、つまり渠(真我=仏性=本来の面目)のことを知っているか。
「渠」という語が興味深いです。読み下し文では「かれ」と読ませていますが、「きょ」とも読めます。暗渠(あんきょ・地下の水路)の渠です。意味は「みぞ」あるいは「親分」です。
「みぞ」からは生命を生み出す場所、女陰を思わせます。老子道徳経にも「道」の描写として「玄牝の門(げんぴんのもん)」という表現があります。古代中国人にとっての道(真我=仏性=本来の面目)は、女性の性器になぞらえてイメージされたようです。
もうひとつの意味、「親分」はヒンズー教で言う「真我」や、非二元の教えで言う「ワンネス」を思わせます。つまり、私たちの個我は「子分」で、その背景には常に「親分」がいるのだ、ということです。
私たちは普段、それぞれ個別に生きていると思っています。しかし、それは真実でしょうか。意識というものは、背景で繋がっているように感じます。
小魚が群れをなして泳ぐのを水族館で見たことがあります。群れが整然とと泳ぎ、一瞬のうちに方向転換します。あれは、練習の成果なのでしょうか。個々が集まって連絡を取り合い、合図しながらあのような美しい動きをしているのでしょうか。
私にはそうは思えません。小魚一匹一匹の中に精神があるのではなく、外に「親分」が居て、その「親分」が全体を指揮しているように思うのです。
そして、小魚だけでなく、人間も本当はその大いなる「親分」に動かされている、ということなのではないでしょうか。因みに、この「親分」は「不生不滅」です。臨済先生はそれを「生もなければ死もありはしない」と言っています。厄介なことに、この「親分」は「子分」には極めて捕まえにくいもののようです。
それでも、毎晩その「親分」にはお会いしているのです。ただ、「子分」は「親分」に溶け込んで、一体化しているらしく、それと気づかない・・・。寝ながら、起きている術(すべ)はないものなのか?
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。