【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆29
こんにちは!
今回は、「思念は放っておくべし」
①読み下し文
諸方の学道流(がくどうる)の如きは、未だ物に依(よ)らずして出で来たる底(てい)有らず。
山僧は此間(すかん)に向(お)いて従頭(じゅうとう)に打す。手上に出で来たれば手上に打し、口裏(くり)に出で来たれば口裏に打し、眼裏(げんり)に出で来たれば眼裏に打す。未だ一箇(いっこ)も独脱し出で来たる底有らず。皆な是れ他(か)の古人の閑機境(かんききょう)に上る。山僧は一法の人に与うる無し。祇(た)だ是れ病(やまい)を治し縛(ばく)を解く。
你諸方(なんじしょほう)の道流、試みに物に依らずして出で来たれ、我れ你と共に商量(しょうりょう)せんと要(ほっ)す。十年五歳、並びに一人も無し。皆な是れ依草附葉(えそうふよう)、竹木(ちくぼく)の精霊、野狐の精魅(せいみ)にして、一切の糞塊上(ふんかいじょう)に向って乱咬(らんこう)す。
瞎漢(かっかん)、枉(いたずら)に他(か)の十方の信施(しんぜ)を消(しょう)し、我れは是れ出家児と道(い)って、是(かく)の如き見解(けんげ)を作(な)す。
你に向って道(い)わん、無仏無法、無修無証と。祇だ与麼(よも)に傍家(ぼうけ)に什麼物(なにもの)をか求めんと擬(ほっ)す。瞎漢、頭上に頭(ず)を安(お)く。是れ你什麼(なに)をか欠少(かんしょう)する。
道流(どうる)、是れ你目前に用うる底は祖仏と別ならず。祗麼(ひたす)ら信ぜずして、便ち外に向って求む。錯(あやま)ること莫(なか)れ。外に向って法無く、内も亦(ま)た得べからず。
你(なんじ)、山僧が口裏(くり)の語を取らんよりは、如(し)かず休歇(きゅうけつ)して無事にし去らんには。已起(いき)の者は続(つ)ぐこと莫れ、未起(みき)の者は放起(ほうき)することを要(ほっ)せざれ。便(すなわ)ち你が十年の行脚(あんぎゃ)に勝(まさ)らん。
②私訳
諸方から来る学僧は、何かに依存せずに、ワシの前に出て来た者はいない。ワシはその(依存している所の)頭を打つ。身振りで来ればその身振りを打ち、言葉で来ればその言葉を打ち、視線で来ればその視線を打つ。未だかつて一人も、独立して出て来た者はいない。皆、古人のつまらぬ言葉の上に乗って来る。
ワシには他人に与える法などひとつもない。ただ、精神の病を治療し、束縛を解いてやるだけだ。
各地の学僧たちよ、試しに何にも依存せずに、ワシの前に出て来い。そのような者と(境地の)やり取りをしてみたい。しかし、この十五年間、一人もいない。
皆、草木に依るもものけ、竹木の精霊、野狐の化け物ばかりで、糞の塊(のような古人の言葉)に喰らいついて離れない。
盲め! 虚しく信者の布施を消費し、「俺は出家者だ」と、このような(いいかげんな)教えをまき散らす。
そのような者に言っておく。「仏はなく法もない。修行もなく悟りもない」と。さらに脇道にそれ、何を求めようというのだ。
盲め! 頭上に頭を乗せてなんとする! お前に何か欠けているものがあるというのか。
諸君の只今即今のはたらきは、祖仏と何ら変わるところはない。ところが諸君はそれが信じられずに、外に向かって探し求めようとする。間違ってはならん。外(言葉、他人)に向かっても、そこに法はない。内に向かっても、得ることはない。
諸君、ワシの言った事を記憶するより、静かに安らいで、事に巻き込まれず過ごすがよい。
すでに起こってしまった思念は、これを継続しないことだ。まだ起こっていない思念は、起こそうとするな。それが、十年行脚するより、ずっと良い修行なのだ。
現場検証及び解説
師家は、学僧を懇切丁寧に指導するということはなかったのでしょうか。臨済先生の言葉を見る限り、非常に荒っぽいやり方で指導していたようです。学僧は言わば理論武装して臨済先生の前にやってきます。しかし、理論は仏教の本質ではありません。理論が実感される、身になることが最終目的です。そして、思考が仏教の実感をかえって邪魔するのです。
臨済先生はそれをわかっているので、学僧の理論や概念を奪い、打つのです。うまくいけば、覚醒体験が起こったのでしょう。いわゆる頓悟(とんご)です。
しかし、実際はなかなか独立独歩して臨済先生に向かってきた者は、15年間ひとりもいなかったというのですから、なかなか「言葉に依らず」という一見簡単にみえるようなことも、案外難しいのかもしれません。
頭上に頭を乗せてなんとする! お前に何か欠けているものがあるというのか。
既に私たちは真我(仏性=本来の面前)です。それが個我中心の視点からは自覚できないので、「ない!ない!」と探し回るはめになります。「何ひとつ欠けているものはない」それは真実です。しかし、それはあくまでも臨済先生がすでに真我の視点をお持ちであって、その視点から見れば「すべての人は何ひとつ欠けているものはない」と明言できるのであって、未悟のものはそうはいきません。何かが欠けているように思えるのです。
ある種の不全感や渇望感を感じているからこそ、禅の修行に入門してそれを何とかして癒そうとする・・・。同じ修行者として痛いほどその気持ちはわかります。また、何かを志したときに手っ取り早いのは先輩の言葉、あるいは書物です。そこから得た知識、疑問を師家にぶつけてみたい気持ちもわかります。
それが臨済先生に言わせると「他人からの借り物に依って対して来ている、ように見えるわけです。自分のものになっていない言葉で向かってくる、取って付けたような言葉で質問してくるように見えるのです。もっと、腹の底から絞り出したような、今風に言えば実存に根ざした言葉で向かって来て欲しいのでしょう。
しかし、臨済先生だって黄檗和尚に最初参禅してときは、ろくに口もきけず、三度ともただ打たれてすごすごと引き上げきたわけです。上記の罵倒はむしろ修行僧を奮起させるものだったのではないでしょうか。
ワシの言った事を記憶するより、静かに安らいで、事に巻き込まれず過ごすがよい。
「言葉に依るな」という教えは臨済先生自身の言葉にも当てはまります。臨済先生の言葉がそのままグサッと刺さればOKなのですが、メモを取られ暗記されてしまうともうNGです。言葉は生きのいいうちに「美味い!」と言って食べてしまえば、身になります。しかし、食べられずに蓄えられて保存されてしまうと、後は自分より下のものに向かってその知識をひけらかすよりほか、使用方法はありません。
「静かにしていなさい」というのはヒンズー教の覚者も言うことです。もう少し突っ込んだ言い方をすれば、「思考を大人しくさせておきなさい」ということです。ところが、それが案外難しいことであることは、瞑想修行を少しでもしたことがある方はご存知でしょう。
「事に巻き込まれずに過ごせ」という指示は、一見面倒に巻き込まれないように集団から離れて暮らせ、というような意味に聞こえますが、そうではありません。
何かについての思考が起きると、それについての感情が起きます。感情が起きるとさらに思考は時空間をウロウロして、状況を複雑にしてしまいます。例えば、「そのようにすると、誰々はこんなふうに思うだろう」とか「そのようにすると、後々このような困難が訪れるのではないか」とか・・・。要するに「要らぬ心配」をしだすのです。
日常をこなすのに必要な思考はOKです。しかし、上記のような不要な思考、心配は起こすなよ、というのが臨済先生のいう「事に巻き込まれず過ごせ」の意味です。不要な思考、心配を起こすほど、物事に巻き込まれ精神的苦痛を抱え込むことになります。ここのところを、自覚してみてください。思考の観察がうまくいっている方にはわかるはずです。
また、繰り返しになりますが、「事に巻き込まれずに過ごせ」というのは、決して物事に無関心で「見て見ぬふり」をして暮らせ、という意味ではありませんので、ご注意ください。
すでに起こってしまった思念は、これを継続しないことだ。まだ起こっていない思念は、起こそうとするな。
珍しく臨済先生、具体的な修行を指示しています。私なりに補足してみますと「すでに起こった思念は、放っておくことだ」ということです。「あ、思考だ」とニュートラルに気づくだけでよいのです。「しまった!」などという後悔は禁物です。かえって思考をややこしくしてしまいますから。
「まだ、起こっていない思念は、起こそうとするな」というのは、訳し方が不十分でもあり、誤解を招く恐れがあります。というのも、思念は「起こそうとする」までもなく「勝手に起こってくるもの」だからです。原文は次の通りです。
未起(みき)の者は放起(ほうき)することを要(ほっ)せざれ。
私なりに解釈すれば、思考というものは背後に欲望が絡んでいます。欲望が少ない人ほど思考は少ない、気がします。思考を少なくするためには、欲望を減らす必要があります。そのことを言っているように、私には感じられました。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。