【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆19

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「できれば避けたい自分の問題」

 

①読み下し文

問う、如何なるか是れ三眼国土。師云く、我れ你(なんじ)と共に、浄妙(じょうみょう)国土の中に入って、清浄衣を著(つ)けて法身仏を説き、又無差別国土の中に入って、無差別衣を著けて報身仏を説き、又解脱国土の中に入って、光明衣を著けて化身仏を説く。

此の三眼国土は、皆な是れ依変(えへん)なり。経論家に約せば、法身を取って根本と為(な)し、報化の二身を用と為す。

山僧が見処は、法身は即ち説法する解(あた)わず。所以(ゆえ)に古人云く、身は義に依って立て、土は体に拠(よ)って論ずと。法性の身、法性の土、明かに知んぬ、是れ建立(こんりゅう)の法、依通(えつう)の国土なることを。

空拳黄葉、用(も)って小児を誑(たぶら)かす。蒺リ菱刺(しつりりょうし)、枯骨上に什麼(なん)の汁をか覓(もと)めん。心の外に法無し、内も亦た得(う)べからず、什麼物(なにもの)をか求めん。

 

②私訳

問い。「三眼国土とは何ですか」

臨済禅師は言われた。

ワシはお前と共に、浄妙の世界に入って、清浄の衣装を付けて法身仏を説く。また、無差別の世界に入って、無差別の衣装を付けて報身仏を説く。また、解脱の世界に入って、光明の衣装を付けて化身仏を説く。

この三つの世界は、皆これ他に依存したもので、変化していくものだ。仏教学者は、法身仏を根本とし、報身仏、化身仏をはたらきとする。ワシの考えでは、そのような法身仏は説法できない。

古人は「仏身は正義に依って立ち、仏国土はその形態に拠って論じる」と言った。明らかに、法身は作りだした法、仏国土は表看板の国土である。黄色い葉っぱを黄金と偽り、子どもを騙(だま)すようなもの。とげのある実や枯れた骨のようなものから、なんの功徳が得られるだろうか。

心の外に法はない。内に向かってもまた得られはせぬ。何を求めようというのか。

 

現場検証及び解説

 

大乗仏教経典からの引用が多くみられます。

臨済先生自身は若き頃、お経を徹底的に勉強されましたが、学問だけの仏教に飽き足らず、修行の旅に出られ黄檗和尚の下で覚醒された方です。

この段では法身仏、報身仏、化身仏の説明がなされていますが、臨済先生は、特にそのことが言いたかったわけではなさそうです。

「法身仏は説法できない」「法身は作りだした法、仏国土は表看板の国土である」これらの言説で、臨済先生が言わんとしていることは、「言葉で指し示したものは、すでに元のみずみずしさを損なっている。観念化されてしまった言葉を実態として受け取ってはならない」ということです。

もっと平たく言えば、「絵に描いた餅は食えない」ということです。しかし、往々にして私たちは言葉を追い、言葉を取り入れ、言葉でわかったような気になってしまいます。絵に描いた餅をいっぱい集めて、食ったような気になってしまうのです。

いえ、餅なら食った気にはなれません。腹が満たされないので、やがて間違いに気づくでしょう。しかし学問は、知識をいっぱい集めて記憶し、人にペラペラ教えたりなんかできてしまうので、つい気持ち良くなってしまい、間違いに気づく機会がないかもしれません。

臨済先生が口を酸っぱくして、不立文字というテーマを仰るのは、そういった輩が当時うじゃうじゃいて、それに学僧が誑(たぶら)かされることが多かったせいではないでしょうか。

もちろん、文字から得る知識がすべて無効である、ということでもないでしょう。知識を実際の瞑想体験と照らし合わせ、吟味し検討し、正しければ受け入れるという慎重な姿勢があれば問題はありません。そこは「文字情報は必要ないんだ」と早合点しない方がいいと思います。

しかし、得てして人間は「知識を取り入れて、それを他人にひけらかす、見せびらかす」傾向があります。他人に教えるということは、優越感を感じますから、大変気持ちがいいものです。また、教えられた人は「いい情報をありがとう」なんて言いますから、ますます知識のやり取りが活発になってしまいます。

ですが、ただの言葉のやり取りだけで終わってしまい、当人同士の人格の成長に結びつかなければ、全く意味はありません。厳密に言えば社交辞令としての意味は大いにありますが、実存的な意味はありません。

もう少し比喩を使ってこのことを言うと、仏道修行に関しては、見た目を着飾るような読書はするな、ということです。格好つけて哲学書や宗教書を持ち歩くなんぞ、最も恥ずべきことです。そんな見栄張り読書を何百冊したって無駄です。それよりも、自分がいいと思うもの、面白いと思うものに従って読書すべきです。

ファッション読書は仏道修行には通用しません。あ、これはカッコイイ、ちょっと頭の上に乗っけて見よう。鏡を見て、いいねいいね、彼女も感心するだろう・・・。そういう気持ちで読書をしたって、安直な他人の称賛は得られるかもしれませんが、自分の身にはなりません。

自分の身になる読書とは、からだに刺さる読書です。なんとなく痛い、自分のことを言われているようで辛い、自分の実存が揺り動かされるような気がする読書です。楽しいだけではすまないところが出てきます。私の場合、テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老の著書、スピリチュアルの指導者エックハルト・トールさんの著書にそれを感じます。

楽しみのための読書を否定しているわけではありません。大いに楽しいことが身になることもたくさんあります。しかし、修行のための読書は楽しいだけでなく、ちょっと圧というか、手応えのあるものの方がいいように思います。

また、自分の問題を避けて通ることはできません。仏道修行は自分修行です。自分の問題を脇に置いて、仏道修行だけする、というわけにはいきません。どうしてもそれは、いばらの道の様相を呈してきます。修行しているあなたが今、辛い思いをしているとしたら、それは正解かもしれません(あるいは、方法が間違っている可能性もあるけれど)。

逆に修行しているあなたが今、楽しければ、それは不正解の可能性も少しは感じていた方がいいかもしれません。少なくとも今の状態に慢ずることなく、「もっといい方法はないか」「このやり方で間違いないか」自分で問い正しながら、慎重にしかも大胆に修行に励むのがいいかと思います。

 

黄色い葉っぱを黄金と偽り、子どもを騙(だま)すようなもの。とげのある実や枯れた骨のようなものから、なんの功徳が得られるだろうか。

観念的な言葉、使い古された言葉はこのようなものです。それらは一種の記憶でしかありません。即今の言葉こそ心に響き、作用します。臨済先生のライブを同時代、生で見て聞いた学僧は、大変ラッキーだったというより仕方ありません。

文字化されたものを千年以上経った今、外国語から訳して再現してみようというのが、この私訳&解説の試みです。うまくいけば、臨済先生の息吹が感じられるのでしょう。

そういう意味では、私は文字の力、言葉の力を信じています。そうでなければ、このような文章はすべて無意味だということになってしまいます。

しゃべり始めた以上、観念化は避けられません。不立文字を言い訳に使ってはなりません。正確さを期し、伝わるように言葉を使うべきなのは、言うまでもないことです。

 

心の外に法はない。内に向かってもまた得られはせぬ。何を求めようというのか。

「外に向かうな」というのは言葉に依るな、他人に依るな、ということ。裏を返せば「自分を信じて、自分から出発しなさい」ということです。さらに言えば「自分を徹底的に観察しなさい」ということです。「観察なくして仏教なし」と私は思います。

原文は「心外無法、内亦不可得」です。「外に向かっても法はなく、内に向かっても法は得られない」では修行者は立往生してしまいます。禅はこのような語法をよく使います。わざわざ人を混乱させるために、このようなことを言うのかと疑ってしまうほどです。

しかし、ここは理由のないことではありません。不可得なのは「対象化できない真我」のことを指しています。真我は私たちの本来の面目です。すでにそうであるものです。すでに持っているものを得ることはできません。鏡は鏡を写しません。そういうことです。

では、真我をどのように「知る」のでしょうか。真我は対象化できない。しかし、いつでも対象物を通じて私たちはそれを知っている。真我だけを「知る」ためには、真我以外のものをすべてとっぱらって、真我と一体化する以外に方法はないようです。私は残念ながら、未だにその状態には至りませんが、そう理解し、そのようになるように、それを目指しています。

あ、「至る」や「なる」や「目指す」という言葉もNGです!

なぜだかは、もうおわかりでしょう。そうです。

すでにそうであるものは、「至る」「なる」「目指す」ことはできないからです。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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