【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆14
こんにちは!
今回は、この肉体が私たちの本当の姿なのか?
①読み下し文
学人了(りょう)ぜずして、名句(みょうく)に執(しゅう)するが為(ため)に、他(か)の凡聖の名に礙(さ)えらる。所以(ゆえ)に其(そ)の道眼(どうげん)を障(さ)えて、分明(ぶんみょう)なることを得ず。
祇(た)だ十二分教の如きは、皆な是れ表顕(ひょうけん)の説なり。学者会(え)せずして、便ち表顕の名句上に向(お)いて解(げ)を生ず。皆な是れ依倚(えい)にして、因果に落在(らくざい)し、未だ三界の生死を免れず。
你若(なんじも)し生死去住(しょうじきょじゅう)、脱著(だつじゃく)自由ならんと欲得(ほっ)すれば、即今聴法する底(てい)の人を識取(しきしゅ)せよ。
無形無相、無根無本、無住処にして活潑潑地(かつぱつぱつじ)なり。応是(あらゆ)る万種の施設は、用処(ゆうじょ)祇だ是れ無処なり。所以(ゆえ)に覓著(みゃくじゃく)すれば転(うた)た遠く、之を求むれば転た乖(そむ)く。之を号して秘密と為(な)す。
道流(どうる)、你、箇(こ)の夢幻の伴子(ばんす)を認著(にんじゃく)すること莫(なか)れ。遅晩中間(ちばんちゅうげん)、便(すなわ)ち無常に帰せん。
你は此の世界の中に向(お)いて、箇の什麼物(なにもの)をか覓(もと)めて解脱と作(な)す。一口(いっく)の飯を覓取(みゃくしゅ)して喫し、毳(ぜい)を補(おぎな)って時を過すも、且(しばら)く知識を訪尋(ほうじん)せんことを要(ほっ)す。因循(いんじゅん)として楽を逐(お)うこと莫れ。
光陰惜しむべし、念念無常なり。麤(そ)なるときは則(すなわ)ち地水火風に、細(さい)なるときは則ち生住異滅(しょうじゅういめつ)の四相に逼(せま)らる。
道流、今時(こんじ)且く四種無相の境を識取して、境に擺撲(はいぼく)せらるるを免れんことを要す。
②私訳
仏教学者は、真我(仏性=本来の面目)を理解していないから、言葉に執着して、凡か聖かなどの概念に妨げられる。だから、仏道の正しい見方に差し障りが起こり、理解が得られないのだ。
各種の経典は、仏教の表看板にずぎない。学者はそれがわからず、その看板の言葉でわかったような気になる。これは皆、文字に依った理解にすぎず、因果に落ちるゆえに、生死の迷いを免れぬ。
もし諸君が、生死の世界を出入を、服を着脱するように自由にできるようになりたいなら、只今即今、法を聴く者(真我)を看て取れ。
それは形なく、根本もない。どこにあるともなくして、ただ生き生きとはたらいている。
すべての感覚器官を通じてソレがはたらく場所は、特定することができない。
だから、見ようとしてもヒョイと逸(そ)れ、求めても捕まえられない。これを名付けて、秘密という。
諸君、この夢まぼろしのような肉体を、自分だと受け入れてははならない。それは遅かれ早かれ、時間とともに変化し潰(つい)えるのだ。諸君はこの世界で、一体何を望んで解脱したいと言っているのか。
飯にありつき僧衣を繕って時を過ごすより、確かな師を訪ねて、教えを請うのだ。欲望が起こるままに快楽を追ってはならんぞ。時間を惜しめ。刻々と時は過ぎ行く。
マクロレベルでは地水火風の肉体の変化に、ミクロレベルでは細胞が「生まれ➡持続し➡異なり➡消える」というサイクルに追い立てられるのだ。
諸君、この4種類を、「変化するゆえに実態のないもの」と理解して、その4種(現象世界)に巻き込まれないようにしてほしいのだ。
現場検証及び解説
盛りだくさんな内容です。
私は禅の文献には疎いほうで、決して詳しくはないのですが、臨済先生のおっしゃることは、禅にしては分析的な内容のように思います。
乱暴な言い方かもしれませんが、禅の文献は、ゴロンとわけのわからない逸話があって、いきなり「悟りました」みたいな話が多くないですか? どういうプロセスでそれが起こったのか、そもそも何が起こったのか、全く説明がなされないことがほとんどです。
臨済先生は、特にこの「示衆」の段では、悟りの実態と未悟の実態を、かなり分析的に語られているように感じました。それを私なりに解釈して、皆さんにお伝えできればと思います。
まず、不立文字のテーマが語られています。「言葉にこだわるから、仏教が理解できないのだ」と。「経典は仏教の表看板にすぎない」とまで言います。
「生死の世界を出入を、服を着脱するように自由にできるようになりたい」
これ、カッコイイですね。憧れます。しかし、これは肉体(個人)が滅びても再生してくるよ、という話ではありませんので、注意してください。生死というのは、個我(エゴ)の生き死にのことだと思った方がよさそうです。私たちは毎晩就寝します。そのとき、一度個我を脱ぎ捨てます。寝てしまったら、そこに個人は存在しません。起きたとき、私たちは「自分の名前」「自分の性別」「自分の国籍」「自分の立場」「自分の役割」などを担います。それが未悟の、普通の人の在り方です。
覚者はそうではありません。起きているときでさえ、「自分の何々」というものから自由です。何者でもないものとして普段から存在し、必要なときだけそれらを担います。ですから「○○さん!」と呼ばれれば「はい」と答えますから、普通の人と外見は変わりません。しかし、内面は大きく違います。
未悟は余計な荷物をしょって歩く人、覚者は必要なときだけ荷物を担う人です。だから、気楽なのです。臨済先生は個我を服にたとえています。未悟は就寝の折にしか服を脱げませんが、覚者は起きているときから着脱自由自在というわけです。
即今聴法の人というのは、言うまでもなく「個我でなく真我」のことです。そこを間違えると、その他すべてが食い違ってきますので、ご注意ください。
「見ようとしてもヒョイと逸(そ)れ、求めても捕まえられない。これを名付けて、秘密という」
「無形無相」以下、真我の特徴が述べられていますが、「見ようとしても云々」が一番のキモでしょうか。真我は捉えがたいものです。それは私たちに一番身近なものだから、私たち自身のことだから、です。鏡は鏡を映すことはできません。眼は眼を直接見ることはできません。太陽は自身が光だということを知りません。
ですから、名付けることはできないし、語ることもできない。語ればすなわち観念化しますから、ソレそのものはたちまち変質し、別モノになってしまいます。捕まえられはしません。犬が自分の尻尾を追うようなものなのです。
「この夢まぼろしのような肉体を、自分だと受け入れてははならない」
奇妙に響く言葉だと思います。しかし、これが真実のようです。
私たちは「肉体がまずあり、そこに精神が生まれる」と想像しています。これは逆なのです。「精神がまずあり、それが肉体を通じて作用している」のです。現代社会の通説は前者です。仏教が主張するのは後者の考えです。前者の考えで「臨済録」を読み進めても、読み切ることは難しいです。
受け入れがたくとも、まず後者の考えに則って「臨済録」を読んでみてください。スッキリと読めると思います。藤原健志という個人はいずれ死にます(嫌だけどね)。しかし、藤原健志を生かしめているソレ(真我=仏性=本来の面目)は死ぬことはない、生まれたこともない、不生不滅、父母未生以前本来の面目、です。そういうことです。
「お前はソレを知ったのか?」という声が聞こえてきそうなので、お答えします。
知りません。
「では、なぜ、そのことを割と堂々と話すのか?」とさらに聞かれたら・・・次のように答えます。
「臨済録」を含む覚者の言うことを注意深く聞き、瞑想修行で確認し理解したことと、突き合わせていくと、「どうも、そのように言っているのらしい」とわかってきたのです。そして、その考えがあまりに素晴らしいので、「それをもっとよく知りたい!」と強く願ってしまったのです。このことが、もっとハッキリわかるといいなあ、そんな感じで瞑想修行を続けています。
で、仏教、ヒンズー教、非二元の教えの覚者たちの本を読み、そこで得た知見を基に「臨済録」を訳し解説を試みています。只今の心境は、「死ぬのは嫌だし、いざそのときになったら、ジタバタするかもしれないが、以前ほど怖くはなくなった」という感じです。前は「死んだらどうなるんだろう、怖いなぁ」と怯えていました。
今は「死んでも、本体はどうにもならないんだ」という考えです。むしろ「変わることは何もない」と思っています。こうも思っています。「死んですべてがご破算になるわけではなさそうだ。課題は課題として次の生(あらたな肉体)に持ち越される」。
なので、今やるべきことは今やっておこう、と思っています。
「死んだらご破算になると思っている」人々は、しばしば自分の問題を繰り越し、逃げ切ろうとします。そういう人々にはこう言いたい。「そうだったらいいね」。私にはそちらの意見の方が、信じがたくなってきています。
先に進みましょう。
マクロレベルでは地水火風の肉体の変化に、ミクロレベルでは細胞が「生まれ➡持続し➡異なり➡消える」というサイクルに追い立てられるのだ。
肉体レベルの現象世界は泡沫のものですから、生き死には当然あります。変化するものは「生まれ、持続し、異なり、消える」運命にあります。ゆえに実態のないものです。
一方で、変化しないものがあります。それが即今=真我=仏性=本来の面目です。これは永遠です。私たちは永遠と有限をあわせもったような存在です。そして、臨済先生は「即今に留まり、変化するものに巻き込まれるな」と言います。それが無事の人なのです。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。