【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆12

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、箱庭のたとえで説明を試みました。

 

①読み下し文

道流、大丈夫児は今日方(まさ)に知る、本来無事なることを。祇(た)だ你(なんじ)が信不及(しんふぎゅう)なるが為(ため)に、念念馳求(ちぐ)して、頭(こうべ)を捨てて頭を覓(もと)め、自ら歇(や)むこと能(あた)わず。

円頓(えんどん)の菩薩の如きは、法界に入って身を現じ、浄土の中に向(お)いて凡を厭(いと)い聖を忻(ねが)う。此(かく)の如きの流(たぐい)は、取捨未だ忘ぜず、染浄の心在り。

禅宗の見解(けんげ)の如きは、又且(しばら)く然(しか)らず。直(じき)に是れ現今なり、更に時節無し。

山僧が説処は、皆な是れ一期(いちご)の薬病相治(やくへいあいじ)す、総(す)べて実法無し。若(も)し是(かく)の如く見得すれば、是れ真の出家、日に万両の黄金を消(つか)わん。

道流、取次(しゅじ)に諸方の老師に面門を印破(いんぱ)せられて、我れ禅を解(げ)し道を解すと道(い)うこと莫(なか)れ。弁(べん)の懸河(けんが)に似たるも、皆な是れ造地獄(ぞうじごく)の業(ごう)。

若し是れ真正の学道人ならば、世間の過(とが)を求めず、切急(せっきゅう)に真正の見解を求めんと要(ほっ)す。若し真正の見解に達して円明(えんみょう)ならば、方(まさ)に始めて了畢(りょうひつ)せん。

 

②私訳

諸君、修行が確かな男なら、本来無事であることを知っているはずだ。

ただ、自分が信じきれぬために、次々と思念をめぐらし求め回り、見失った頭を求めるような愚を、やめられないでいる。

最高の達道者である円頓菩薩でさえ、現象界に身を現すことはできても、浄土では凡を厭い聖を願う。このような類(たぐい)は、「あれかこれか」の分別心が未だ捨てきれず、染と浄の思念が残ったままである。

禅宗の見解はそうではない。只今即今、つまり無時間だ。

ワシは一期一会で、そいつの病に応じた治療を施す。決まった法則などないのだ。

このように知ったなら、これぞ出家人、日に一万両分のはたらきができる。

諸君、各地の老師方にいいかげんな印可を貰って、禅がわかったと勘違いしてはならぬ。耳に心地よい弁舌は、皆これ地獄行きの切符を貰うようなものだ。

本物の修行者なら、世俗の誤った見方には眼もくれず、一刻も早く正しい見方を求めようとするはずだ。

もし、正しい見方に達して、満月の如く明らかならば、そこで初めて修行完了だ。

 

現場検証及び解説

 

臨済先生はいろいろとおっしゃいますが、言っていることは実は単純なことです。「自分を信じろ」「他に向かって求めるな」「文字に依るな」ということです。しかし、ではどう修行を進めていくかについては、あまり詳しくはおっしゃいません。無門関もそうですが、この臨済録も問答は数多く語られますが、修行法についてはあまり語られない。そこが私は不満です。

おそらく、僧堂の規矩(きく)や生活の中にそのヒントがあると睨(にら)んでいるのですが、不勉強のため未だ手つかずです。そのうちに、調べてみようと思っています。

 

「自分が信じきれぬために、次々と思念をめぐらし求め回り、見失った頭を求めるような愚をやめられない」

信不及もよく登場する言葉です。「自分が信じられない」という状況は、逆に言えば、「他人を信じてしまう」という状況です。自分に既に備わっているはずの法に向き合わずに、美辞麗句で修行者を酔わせるエセ仏教学者の言説を探しに出かけてしまう、ということでしょうか。

馳求という言葉も何度も登場します。道場で坐禅する、というような単調は生活に飽き足らずに、善知識を求めて旅に出る僧も多かったのかもしれません。とかく人間は落ち着いて一所に居られないもののようです。

仏教が目指す境地、すなわち「真我=即今=仏性=本来の面目」は、既に私たちに備わっているモノです。比喩を思いついたので、お話してみようと思います。

箱庭療法というのをご存知でしょうか。小さなテーブルくらいの大きさで、高さ7センチ程度の深さがある箱に、砂が入っています。箱の下地はブルーです。これを使って心理療法を行います。おもちゃを箱庭に置いてクライアントに世界を作らせます。

私が言おうとしていることは、心理療法とは関係ありません。ただ、箱庭を思ってください。

箱庭の砂、及び置かれたおもちゃ類は、私たちの思考とそれに伴って起こってくる現象すべて、です。真我はどこにあるのでしょうか。下地のブルーがソレです。どんなに砂が厚かとうと、どんなにおもちゃが置かれようと、風景が派手であろうと地味でああろうと、厳然としてブルーの下地はあります。そのようなものとして、私たちの真我は、常に私たちと共にあります。

こんな状況で、真我をどこか別の場所に探しに行く必要があるでしょうか? それは砂によって表現可能なものでしょうか。砂から砂へ渡り歩くことで、発見できる何かなのでしょうか。

臨済先生の「求めるな。自分を信じろ」というのは、「法は既にお前たちと共にあるぞ。それに気づけ」ということなのです。禅語の「脚下照顧」というのはそういう意味です。もっと言うと、脚下ですらない。何々の「下」とすら言えないほど私たちに近いモノ、真我は私たち自身のこと、すなわち本来の面目なのです。

そのように考えていくと、最初に申し上げた「仏教の目指す境地」という言い方も不正確です。その境地を「目指す」ことはできないからです。既にそうであるものを「目指す」ことはできません。「目指す」という言葉には時間の経過が含まれています。また、今此処(いまここ)から別の場所を「目指す」のですから。

仏教の目的地(この言葉も不適切かもしれませんが)は、今此処=即今=無時空間のソレなのです。そのことを、臨済先生はあの手この手で言おうとしています。

 

「あれかこれか」の分別心が未だ捨てきれず、染と浄の思念が残ったままである。

思考の仕事は分節作用です。まず、一番最初に「個我と世界」というふうに2分割してしまいます。本当はこの世界に切れ目などないのです。思考がはたらかなければ、個我はこの世界で特別な存在にはなり得ません。「そんなバカな!」と思われる方も大勢いらっしゃると思います。

しかし、瞑想体験で思考を少なくしていき、虚心坦懐(きょしんたんかい)にそのことを感じてみると(考えるでなく)、それが腑に落ちます。この理解は神秘体験を経なくてもわかることだと、私は思います。

まず、「切れ目のない世界」が現れ、その後間髪入れずに「私は特別」という考えが現れ、世界を分割してしまいます。個我が生まれた後の「(私vs.)世界」はよそよそしいものに変貌してしまいます。私を虚しくすれば(思考を少なくすれば)世界は親密になってきます。

子どもの頃は多かれ少なかれ、世界は親密であったはずです。思春期になり自意識が芽生えると、世界を、他者を、特に異性(異性愛者の場合)を過度に意識し、世間の眼に適(かな)うような生き方だけを目指してしまう、それが不幸の原因です。

分別心がその根源にあります。そのことに気づくための瞑想修行です。

 

「そいつの病に応じた治療を施す。決まった法則などないのだ」

臨済先生の治療は、おそらくこんな感じです。

臨済先生が修行者に対したとき、その境地が意識に照らされ、自然にわかります。はっきりしない場合は少しはたらきかければ、わかります。前の段で問題になった照(しょう)と用(ゆう)です。照の基準は「思考の多寡」です。思考が多い修行者は重症、少なかれば軽症です。

それに応じて臨済先生の治療が自然に起こります。ここが重要なポイントで、臨済先生は意図して治療を行うわけではない、ということです。私たちが知っている一般の医者は、まず患者のデータを集め、それから過去の治療歴を検索し、その患者の症例にあった治療法を選択し治療を施す、という順序です。

臨済先生は意図して治療しません。そこに思考が関与しないのです。「思考しないでやる治療なんて信用できない!」という声が聞こえてきそうです。なるほど、西洋医学についてはそうかもしれません。しかし、禅の治療はそうではありません。少なくとも臨済先生の修行僧に対する治療はそうではない。

見て、自然に治療が起こる。意図した治療ではないので、決まった法則がない。つまり、融通無碍(ゆうずうむげ)だということです。そしておそらく、これ以上はないというくらい、的確な治療が行われたものと思われます。知的には理解しがたいかもしれませんが、真我から行われることは的を得ているのです。

従来の仏教に対して、臨済先生が毒舌を振るうのは、それだけ衆僧が有象無象の怪しい僧の被害にあっていたからでしょうか。今も昔も、宗教には気をつけなければいけませんね。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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