【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆9
こんにちは!
今回は、臨済禅師云く「仏法はなんの役にも立たない」
①読み下し文
師、衆に示して云く、道流、仏法は用功(ゆうこう)の処無し、祇(た)だ是れ平等無事。
屙尿送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、困(つか)れ来たれば即ち臥(ふ)す。愚人(ぐにん)は我れを笑うも、智(ち)は乃ち焉(これ)を知る。
古人云く、外に向って工夫を作(な)すは、総(す)べて是れ痴頑(ちがん)の漢なり、と。你(なんじ)且(しばら)く随所(ずいしょ)に主と作れば、立処(りっしょ)皆な真なり。境来たるも回換(えかん)すること得ず。縦(たと)い従来の習気(じっけ)、五無間(ごむげん)の業(ごう)有るも、自(おのずか)ら解脱の大海と為(な)る。
②私訳
臨済禅師は言われた。
諸君、仏法はなんの役にも立たない。ただ、平穏無事(即今状態)なだけだ。
大小便、服を着て飯を食い、疲れたら眠る。ただそれだけだ。
愚か者はワシを笑うが、智者はこれを知っている。
「外に向かってあれこれやるのは、愚かで頑固な奴だ」と昔の人も言っている。
諸君、場が変わるとも、即今(主)を保てば、行いはすべて真となる。外の状況が変わるとも(客に)立場が逆転することはない。たとえ思考の習慣や、悪い因果の流れがあったとしても、おのずから解放の海へと運ばれていくのだ。
現場検証及び解説
この段は、禅仏教の重要なポイントが語られています。いかにも平易な口調で語られていますが、かなり難易度が高いことが主張されています。修行をそこそこ積んだ人がこの文章を読めば、啓発されることもあるかもしれません。しかし初心者が読めば、誤解される可能性がある文章です。
おそらく臨済先生は、中級以上の修行者に向かって、この法話をしています。少なくとも数年は修行をし、苦心しながら仏法の理解を推し進めようとしている者たちに向かって、語りかけています。
また、人口に膾炙されている名句が出てきます。「随所に主となれば」云々などはお聞きになったことはあるでしょう。しかし、耳ざわりの良い名句には気をつけましょう。なぜなら、響きが良いものだから、その響きに酔ってしまって、「わかったようなつもりになる」からです。「わかったようなつもりになる」は一種の誤解です。
禅のテキストでは、寸毫の差が命取りになります。「わかったようなつもりになったら」理解はそこでストップしてしまいます。ですから、生半可な理解の仕方をするくらいなら、「なんか、しっくりこないなあ」と付箋を付けておいたほうがいいのです。
ですから、私がここでしている拙い解説も、とりあえず「私はこう思う」という話ですので、そのつもりでお聞きください。粗探しをされるのも嫌ですが、鵜吞みにされるのも迷惑です。少し大袈裟に言えば、皆さんの全人生体験を傾けて、以下の文章をお読みいただき、吟味していただければと思います。
「仏法はなんの役にも立たない」
禅のお坊さんはよくこのようなものの言い方をします。聴いている私たちは、多少なりとも不愉快な思いをします。なぜなら、何かを得ようとして、法話を聴きに来ているからです。目の前でシャッターを下ろされているように感じ、不快になるのはむしろ当たり前です。
臨済先生は中級者以上に向けて、この法話をしていると、先に述べました。この言説もそのようにとらえないと、間違えます。初心者が聴けば、踵を返して、仏教から遠ざかるでしょう。それはお釈迦さまの意志に背きます。
ここでも、即今という言葉を置くと、わかりやすくなります。即今は無時空間のポイントです。時空間に垂直に立つ何かです。これが仏教の目指すところです。そこで、上記の「役に立つ」という言葉の意味を思い浮かべてください。
「役に立つ」というのは誰か(自我を含む)のために役立つということです。ここには空間=関係があります。また、「役に立つ」ものがあり、それを使用すると「役に立った」状態が現れます。そこに時間を要します。
以上のように「役に立つ」とは時空間の現象です。仏法は無時空間を目指すわけですから、仏法=「役に立つ」は成り立たない、と臨済先生は言っています。
腑に落ちないかもしれませんが、臨済先生は私たちを煙に巻こうとして、このように言っているのではないという点は、理解してほしいと思います。また、「役に立たない」と言いますが、世間的な価値によればゼロに等しいということで、体験すれば「こんなにいいものは他にない。知らない人は気の毒だ!」となります。
即今を欠片(かけら)でも体験すれば、その価値が垣間見られるでしょうし、瞑想修行を精進するモチベーションが自然に出てきます。
「大小便、服を着て飯を食い、疲れたら眠る。ただそれだけだ」
これも誤解を生みそうな文章です。ただ、怠惰に時を過ごしていればいい、という意味ではありません。規矩(きく・道場の規則)に随って、全体の流れに乗っていくだけで良い、というのとも少し違うような気がします。要点は「思考を起こさないようにしろ」ということだと思います。
人間は会話や議論が好きな生き物です。放っておくとペチャクチャおしゃべりが始まります。それが修行を損ねます。会話を避ける工夫が必要です。また、この場合の会話とは自己内会話、つまり内なる思考も含みます。これを減らすのはなかなか難しい。たいていの人は、ひっきりなしに何か考えています。つまり、しゃべっています。
内なる思考が止んでいく方向に覚醒はあります。それは確かです。その方向への向かい方を、臨済先生は示唆しています。私なりに平たく言い直してみましょう。
「日々の修行生活を当たり前にこなしていけ。余計なことは一切考えるな。こうしたらどうか、ああしたらどうか、あれはダメ、これはイイ、あいつはイカン、こいつもイカン・・・そのような思いこそ、一番の毒だ。もう一度言う。当たり前にやれ。余計なことを考えるな」
ああ、臨済先生の端的さがすっかり失われてしまいました(笑)。しかし、言わんとされているのは、こういうこと。思考を減らす方向へ行け、そのために日常生活を淡々とこなしていけ、という指示です。
「外に向かってあれこれやるのは、愚かで頑固な奴だ」
「外に向かって求めるな」という指示も、臨済先生は繰り返し言われています。簡単な言葉ですが、捉えにくい内容を含んでいます。
意識は「外に向かって走る」傾向があります。それは意識の基本設定です。家の中に居て、何も見ない、何も聞かない、何もしないで居ることは苦手です。「不要不急の外出は禁止」「スマホもパソコンもテレビもラジオも読書も禁止」された状態を、意識は好みません。刑務所の独房に入れられた状態を想像してみてください。身体的自由の束縛もさることながら、精神的自由の束縛もかなりの苦痛だと思われます。
独房にはまだ妄想に耽る自由は残されているかもしれません。しかし、禅はそれすらも出来ない状態に修行者を追い込もうとします。なぜなら、その先に「一切の無駄な思考が起こらない状態」があり、おそらくその先に覚醒(悟り)があるからです。
臨済先生は「意識を外に向かって走らせるな」と言いますが、それは人間の自然な在り方に逆行するものであり、難しいことなのだ、とあらかじめ知っておくべきだと思います。そうでないと、それにチャレンジしたとき「あー、俺はダメな奴だ。思考を止めることができない!」とすぐに絶望してしまいます。思考の多寡(たか)は外からは伺い知れませんから、自分だけがダメなように感じてしまいますが、そうではありません。
臨済先生は、通常達成するのに何年もかかってしまうような、難易度の高いミッションを、さも容易にできるかの如く語っています。
もうひとつ、思考を少なくするのが困難な理由を挙げておきます。思考は人間が最もよく使う道具です。日常生活で常に使う道具を、あなたはどう扱いますか? そう、常に手元に置いておきますね。常に手元に置くとどうなりますか? そう、常に意味なくいじくり回しませんか? 現代で言うとスマホがそうです。時間ができると、自然に手に取って何か見てしまいます。
使い勝手がいい道具で、身体的なものを挙げれば、手がそうです。手は常に動いています。ジッとしていません。喫茶店で誰かとお茶を飲むときも、組み合わせたり、すり合わせたり、モジモジしてしまいます。
これらは使い勝手がいい道具なので、すぐに使えるようにヒートアップしておくからです。手は常に、いい意味でも悪い意味でも「手出し」できるよう、自らをヒートアップしています。それと同じく思考も、常に使えるようにヒートアップしているので、思考はブラブラするのです。それはむしろ普通の状態です。
象の鼻も同じ理由でブラブラしています。象の鼻は象にとって便利な道具です。食べ物を口に運ぶ(人間の手)、息をする(口)、水を吸い上げ体を洗う、外敵と戦う、という具合です。象の鼻は常にブラブラしています。いつでも使えるように待機しています。
ヒンズー教の覚者、ラマナ・マハルシは「象の鼻をジッとさせるためには、それを鎖に巻きつかせるといい。それと同じく思考を止めるために、思考を何かに留めさせなさい」と言っています。そう言われてみれば、「数字を数える数息観」「腹式呼吸の腹の膨らみと縮みに注目する」「鼻の下の息の出入に注目する」「円相に集中する」など、どれも思考を止めるための鎖の役割を果たしています。
この基本を覚えておくと、自分で思考を止める工夫ができるかもしれません。皿洗いに集中、掃除に集中、歩くことに集中、みんな瞑想修行になってしまいます。
まとめると、「意識を外に向かって走らせるな」という指示は簡単なようで難しい、ということ。
なぜなら、「意識が外に向かう」のは人間の基本設定(デフォルト)であるから。
修行は、その基本設定の逆の方向に向かうことだ、ということです。
そして、矛盾するようですが、最後にもうひとつ付け加えると、「思考を少なくしよう」とすると、逆に思考を活性化してしまう、ということです。その理由は、「少なくしよう」という意図が、ズバリ思考だからです。ここはわかりにくいので、また、別の機会にじっくりとお話ししようと思います。今は「そういう難しさがある」と知っておいてください。
「随所(ずいしょ)に主と作(な)れば、立処(りっしょ)皆な真なり」
これは有名な言葉です。しかし、誤解も多くあるように思います。私なりに解釈してみました。「随所に主となる」というのは、「状況に乗っていくのではなく、状況に乗らないように即今に留まること」ととらえました。一般の解釈は「状況に成り切る」というものでしょうが、そう解釈すると「状況に巻き込まれる」ことになります。
そうではなくて「即今に留まり」ながら「即今から的確にはたらく」というのが、「随所に主となる」の意味だと私は思います。また「即今から的確にはたらく」というのは、もう少し具体的に言うとこういうことです。
即今を守っていると、「外からのはたらきかけ」あるいは「外の状況認識」に対して、全く自然な反応が起こる、ということ。ですから「的確にはたらく」という能動的なものではなく、「的確な反応が起こる」という受動的な状態だと理解しています。そうすると「立処皆な真なり」の状況になる。
文意を普通にとると「いろんな状況に主となってはたらく」という意味に解しがちですが、どうしてもそのような解釈ではしっくりきません。私なりに解釈してみました。皆さんの方で吟味していただければと思います。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。