【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆2
こんにちは!
今回は、臨済先生の教え炸裂!
①読み下し文
師乃ち云く、今時(こんじ)、仏法を学(がく)する者は、且(しばら)く真正(しんしょう)の見解(けんげ)を求めんことを要(ほっ)す。若し真正の見解を得れば、生死に染まず、去住自由なり。殊勝(しゅしょう)を求めんと要せざれども、殊勝自(おのず)から至る。
道流(どうる)、祇(た)だ古(いにしえ)よりの先徳の如きは、皆な人を出(い)だす底(てい)の路(みち)有り。
山僧が人に指示する処の如きは、祇だ你(なんじ)が人惑(にんわく)を受けざらんことを要す。用いんと要せば便ち用いよ、更に遅疑(ちぎ)すること莫(なか)れ。如今(いま)の学者の得ざるは、病甚(やまいなん)の処にか在る。病は不自信の処に在り。你若し自信不及(じしんふぎゅう)ならば、即便(すなわ)ち忙忙地(ぼうぼうじ)に一切の境に徇(したが)って転じ、他(か)の万境に回換(えかん)せられて、自由を得ず。你若し能(よ)く念念駆求(ちぐ)の心を歇得(けっとく)せば、便ち祖仏と別ならず。
你は祖仏を識(し)らんと欲得(ほっ)するや。祇(た)だ你面前聴法底(なんじめんぜんちょうぼうてい)是れなり。学人信不及(しんふぎゅう)にして、便ち外に向って駆求す。設(たと)い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相(しょうそう)にして、終(つい)に他(か)の活祖意(かっそい)を得ず。
錯(あやま)ること莫れ、諸禅徳。此の時遇(あ)わずんば、万劫千生(まんごうせんしょう)、三界(さんがい)に輪廻し、好境に徇(したが)って掇(てっ)し去って、驢牛(ろご)の肚裏(ずり)に生ぜん。
道流、山僧が見処に約せば、釈迦と別ならず。今日多般の用処(ゆうしょ)、什麼(なに)をか欠少(かんしょう)す。六道の神光(じんこう)、未だ曾(か)つて間歇(かんけつ)せず。若し能く是(かく)の如く見得せば、祇だ是れ一生無事の人なり。
②私訳
臨済禅師は法話の際、次のように言われた。
仏法を学ぶ者は、ぜひとも「正しい見方」をしてほしいものだ。「正しい見方」をすれば、生死の問題に左右されることなく、生きるも死ぬも自由自在だ。悟りを得ようとしなくとも、自然にそれに達するのだ。
諸君、古(いにしえ)の祖師方は皆、人を迷いから抜け出させる方法を心得ていた。
ワシが諸君に言いたいのは、ただ「世間(世俗諦)に惑わされるなかれ」ということだ。
今の学僧が悟ることができないのはなぜか。原因はどこにあるのか。原因は自分を信じられないところにある。
もし自分を信じ切れないなら、四六時中いろんな物事に振り回され、主人が召使いになるがごとく、不自由な思いをする。
諸君が「常に何かを追い求める、その心」をキッパリと断ち切ることが出来たなら、祖仏と何ら変わることはない。
諸君は祖仏を知りたいか。
祖仏とは、このワシの目の前で、法を聴いている存在(個我でなく真我)こそ、それなのだ。
学僧は自分が信じ切れないから、外に向かって追い求めるのだ。
たとえ(外に向かって)求め得たとしても、それは観念的なもので、いきいきとした祖師方の精神とは別物なのだ。
諸君、誤ってはならぬ。チャンスを逃したら、永遠に迷いの世界を流転することになる。欲のおもむくままに過ごし、ロバや牛の腹に生ずることになろう。
つまり、ワシに言わせれば、諸君と釈迦は全く同じだ。毎日の様々なはたらきに、どこか欠けているところがあるか。
六根(眼耳鼻舌身意)を通じてはたらくこの光は、未だかつて一度も絶えたことがないのだ。
もし、このようなことがしっかりと実感できれば、一生涯無事に過ごすことができる。
現場検証及び解説
臨済先生の教えが小気味よく炸裂しています。端的なところが魅力ではありますが、如何せん説明不足の感は否めません。
「臨済録」は、臨済先生が実際に法話され、それを弟子がまとめたものです。その声を千年後、私たちは文字を通じて聞いているわけです。そこで考慮されるべきことは、どのような人々に向かってそれが語られたか、です。時代背景、文化的状況も必要かもしれません。
私は不勉強で、歴史的なことはわからないのですが、内容を読む限り、そこそこ修行を積んだ学僧向けの法話のようです。かなり高度なことが語られています。いわば小中学生向けでなく、大学生向けです。熟練者には「なるほど」と思えても、初心者にはチンプンカンプン、あるいは誤解されるような内容です。
禅仏教の教化というよりも、長年努力しているが覚醒を得られない者を、激励しているような口調さえ感じられます。論理的に主張するというよりも、短いセンテンスで修行者を啓発し、一気に覚醒を促すような内容です。
臨済先生の息吹を感じるなら、原文や読み下し文を繰り返し読んだり、暗記したりすることも有効なのかもしれません。しかし、意味もまた大事な要素です。不立文字を旨とする禅の文献を、説明すること自体不遜なことだ、という考えも成り立ちますが、野暮を承知で説明を試みてみようと思います。長くなるかもしれません。よろしければ、ご一緒ください(笑)。
「真正の見解」を「正しい見方」と訳しました。
「正しい見方」とは何でしょうか。観念的な枠組みを取り外し、直(じか)に見るということです。アインシュタインに影響を与えたエルンスト・マッハという人は「知識は観察だけにもとづくべきで、いかなる暗黙の形而上学的前提からも自由でなければならない」と主張していたそうです。これと極似しています。
思考を交えず虚心坦懐に現象をありのままに見つめる、そうすると真実が見えてきます。しかし、言うは易く行うは難しで、思考は常にどこからか湧いてきて、私たちの「正しい見方」を邪魔します。
「正しい見方」は即今=仏性=本来の面目と言い換えられます。即今は永遠ですので、生死とは関係ありません。生まれ死ぬのは、肉体と、それに伴う精神機構(自我)です。本体の真我は生まれたり死んだりしません。生命の意識は常に今・ここにあり、それは永遠なのです。「生死が自由自在」というのは、自我が生まれたり死んだりすることを言っているので、肉体の生死のことではありません。
「世間(世俗諦)に惑わされるなかれ」というのは、即今に在った意識が時空間に展開し、巻き込まれることを言っています。もちろん、肉体を持って生きている限り、意識は時空間に展開しますが、そこに思考が絡んでくると、まよい・苦悩の様相を呈してきます。
続く「はたらき」が起こったときは、ためらわず、その「はたらき」に任せよ。さらに思念を起こしてはならない。
これは、思考を起こさず、現象に反応していけ、ということです。そうすればスムーズに行動できます。行動のぎこちなさは、思考が邪魔するからです。心の観察が上手にできるようになれば、そのことがわかってきます。
「信不及」は解釈が分かれるところかもしれません。私は「信」を「観念に依らず、自分で観察し、吟味したことだけを採用する態度」と定義します。その態度がなければ、世間にはいろんなことを言う人がいますから、いちいちそれに振り回されて、わけのわからないことになってしまいます。よくあることです。
「常に何かを追い求める、その心」は、皆さんもよく経験していることだと思います。「何だかソワソワする」「落ち着かない」「何かしたいのだが、何をしていいのかわからない」「イライラする」等々。結局、今いる場所が気に食わない。どこかにそれがあるような気がして、ここではないどこかを探しだす。それが人間の苦悩の原型です。それは、なかなか断ち切りがたいものです。とりあえず、それに気づきましょう。話はすべてそこからです。
「你面前聴法底」も、臨済先生お得意の言葉です。ここで間違えてほしくないのは、これは修行僧一人一人のことを言っているのではない、ということです。個我=祖仏ではありません。個我にはたらいている真我、のことを指して祖仏(個人としてではなく)と同じだと言っています。
スマホと電気の関係のようなものです。スマホにはいろんな仕様があり、アプリがあり、設定がなされています。スマホ(個我)は自身の仕様、アプリ、設定が自分だと思っています。しかし、実際は電気(真我)が本来の面目である、という話です。
ですから、「你面前聴法底は祖仏なり」と言われて、「そうか俺は祖仏と同じなのだ!」と尊大な気持ちになってしまったらアウトです。かえって個我を肥大させることになります。各自の根元にある真我にその言葉が響けば、なんらかの効果はあると思います。ぜひとも皆さんもそうしてください。
「チャンスを逃したら、永遠に迷いの世界を流転することになる」は、個人的見解ですが、実際にこういうことはあるのではないかと思っています。「そんなバカな!」とお思いの方も多数おいででしょうが、私は一応この考えに則って死んでいこうと考えています。
個人レベルでいい思いができたら、それでOKという考えは気持ちを著しくなえさせます。そんなはずはないだろうと、根拠もなく思っています。こちらの考えは元気が出ます。元気が出る考えが正しいと感じます。
「六根(眼耳鼻舌身意)を通じてはたらくこの光」
スマホのたとえで言うと、六根はメカのボディとその仕様など、です。こちらは有限で変化します。
光は電気。こちらは無限にして永遠、不変のものです。それは対象化できないものです。覚者(祖仏)はソレをソレとして知った者です。もちろん、凡夫(未悟)の者にも光ははたらいています。しかし、残念なことに凡夫にはソレの自覚はありません。ソレが現象化した先のことしか知らないのが凡夫です。
なんとか、無事の人になりたいものです。
今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。