【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁15
こんにちは!
今回は、即今ゲーム、痛み分けとボロ負けと。
①読み下し文
麻谷(まよく)、到り参ず。坐具を敷いて問う、十二面観音、阿那面(あなめん)か正(しょう)。師、縄牀(じょうしょう)を下って、一手は坐具を収め、一手は麻谷を搊(とら)えて云く、十二面観音、什麼(いずれ)の処に向ってか去る。麻谷、身を転じて、縄牀に坐せんと擬(ぎ)す。師、拄杖(しゅじょう)を拈(ねん)じて打つ。麻谷接却して、相捉(とら)えて方丈(ほうじょう)に入る。
②私訳
麻谷が臨済に参じた。
麻谷は坐具(礼拝用の敷物)を敷いて問うた。
「十二面観音はどれが正面か」
臨済は坐禅椅子から下り、片手で坐具を剥(は)ぎ、片手で麻谷をつかんで言った。
「十二面観音はどこへ行った」
麻谷は身を翻(ひるがえ)して、坐禅椅子に坐ろうとした。臨済は拄杖を取って打とうとした。麻谷はそれを押さえた。二人は押し合いながら、臨済の居間に入っていった。
現場検証及び解説
この項も、禅独特の身体用語を駆使した問答です。身振りの意味がわかれば、難しいものではありません。
「十二面観音はどれが正面か」は即今ゲームスタートの合図です。礼拝用の敷物を敷いたのは、そこに十二面観音がおられますぞ、というアピールです。この場合、どれが正面かなんてことは、どうでもいいことです。「どれか?」と思念を起こしたら負けなのです。
臨済もそこはよくわかっています。敷物をサッと引きはがし、「さあ、十二面観音はどこ行った?」というポーズ。「あなたのいう十二面観音など、観念に過ぎませんね。どこに行ったか答えてくれたら、私も答えましょう」という感じです。
日本で言えば、一休さんのふすま絵の虎退治のようなものです。
麻谷は坐禅椅子に坐ろうとします。ここは「私が答えるなら、私が主人(師家側)ですね」という意味でしょう。臨済はそれを認めず、打とうとします。麻谷はそうはさせじと、棒を手で受け止め、二人は臨済の部屋へと入っていきます。即今ゲームは勝負がつかぬまま、痛み分けのような形で終わります。
もうひとついきましょう。
①読み下し文
師、僧に問う、有る時の一喝は、金剛王宝剣の如く、有る時の一喝は、踞地金毛(こじきんもう)の獅子の如く、有る時の一喝は、探竿影草(たんかんようぞう)の如く、有る時の一喝は、一喝の用を作(な)さず。汝作麼生(なんじそもさん)か会(え)す。僧擬議(ぎぎ)す。師便ち渇す。
②私訳
臨済がある僧に問うた。
「あるときの一喝は金剛宝剣の如く、あるときの一喝は獲物を狙うライオンの如く、あるときの一喝は竿で草の影を探るが如く、あるときの一喝は何の用もなさない。さあ、お前はこれをどう理解する」
僧は思案した。
臨済は喝した。
現場検証及び解説
喝の種類が四つ並べられています。これをひとつひとつ解説することは無意味です。なぜなら、臨済はこれを問うた僧に対して、答えを求めていないからです。これは即今ゲームの罠です。「どう理解するか」と問われ、思念を起こしてしまった時点で、この僧は失格です。「何て言おうか・・・」と迷わせようとして、臨済は問うています。僧はまんまとその仕掛けにはまってバツ喝をもらいます。
喝は臨済が始めた指導法なので、臨済自身は自由自在にその場に応じて使い分けたのでしょう。その様子は四つの喝から伺い知ることが可能です。しかし、それを分析して真似ようとしたり、学問的に分類することは、あまり建設的なことではないと思います。
喝は即今を示すもの、問答の相手を試すものです。臨済の肉体を通じて発せられた喝は効果があったでしょうが、それを私たちが真似ようとすると、おかしなことになってしまいます。指導者の皆さんには、伝える相手を前にして、是非とも自分の指導法を編み出してほしいものだと、切に感じます。
今回はこの辺で。できるだけ早く、お会いしましょう。