【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁5

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、普化とロバと盗賊と。

 

①読み下し文

一日、普化、僧堂前に在って生菜(さんさい)を喫す。師見て云く、大いに一頭の驢(ろ)に似たり。普化便ち驢鳴(ろめい)を作(な)す。師云く、這(こ)の賊。普化、賊賊と云って、便ち出で去る。

 

②私訳

ある日、普化は僧堂の前で生の野菜を食べていた。

臨済はそれを見て「まるでロバのようだな」と言った。

普化はロバの鳴き声を立てた。

臨済「この盗賊め!」

普化は「盗賊、盗賊!」と言いながら立ち去った。

 

現場検証及び解説

 

しだいに、普化の奇人変人ぶりが明らかになってきます。しかし、ただの変人なら「臨済録」に載せる必然性はありません。普化の禅者としての側面を明らかにしてみましょう。

聖者はエゴイズムがない人です。エゴイズムとは自我、個人的感覚です。そうなのです、聖者は個人ではありません。聖者は個人が幻想だと見破った人です。見破った後も、個我的な状況は一定期間続きますが、次第に弱まっていきます。なぜなら、個我は幻想ですので、放っておけば無くなり(少なくとも影響力は弱くなり)ます。

では凡夫(未悟)の個我はなぜいつまでも旺盛なのでしょうか。それは、無意識のうちに個我をケアしているからです。個我に常にエネルギーを注いでしまっているのです。「まさか!」と思われるかもしれませんが、それが事実です。

ですから、瞑想修行の初期段階に、個我を見つけなければいけません。個我の所業(それはグロテスクなものです)をつぶさに観察することが、瞑想修行の主眼となります。個我を知ることなしに、個我を克服することはできません。

個我の影響が少なくなれば、自然に真我が輝きだします。瞑想修行をうまくやれば、そのようなプロセスが自然に進みます。この個我の観察については、微妙な方法論があるのですが、長くなりますので、別の機会にします。

普化には個我がありません。個我がないので、怒ることもありません。怒りというのは、個我に相手の言葉がカチンと当たり、その傷みに対して起こるものです。「ロバみたいだな」と言われて怒るのは、個我(要するにプライドです)が傷つくからです。しかし、個我がなければ、傷つくこともありません。

普化は臨済に「ロバみたい」と言われても、何とも思わず、むしろ「そうか、ロバか!」とばかりに鳴き声を上げます。説明的に描写していますが、この間、普化にどんな思念も起こっていません。すべて間髪入れない自然な反応なのです。

臨済にとっては、やや予想外の反応だったのかもしれません。「なんだ、こいつ!」との思念が起きたのかもしれません。相手の境地(即今)を乱すつもりが、逆に乱されてしまった。

臨済は「他人の境地(即今)を荒らす奴」という意味で「盗賊!」と言います。普化はその言葉をも抵抗なく受け取め、盗賊になったつもりで、去っていきます。ここでも臨済、普化に一本取られています。

 

今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

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