【臨済録】やさしい現代語訳・解説 行録14

2023/09/09
 

 

こんにちは!

今回は、凡と聖がテーマです。

 

①読み下し文

象田(ぞうでん)に到る。師問う、凡にあらず聖にあらず、請う、師速やかに道(い)え。田云く、老僧は祇(た)だ与麼(よも)。師便ち喝して云く、許多(そこばく)の禿子(とうす)、這裏(しゃり)に在って什麼(なん)の椀(わん)をか覓(もと)む。

 

②私訳

臨済は象田和尚のところに到った。臨済は問うた。

「凡でなく聖でもない、これ何ぞ。師匠、今すぐここで言ってください!」

象田「この老僧はそのまんまぞ」

臨済は喝して言った。

「ここいらの坊主どもはこの寺でどんな飯を食らっておるのか!(教わっているのか)」

 

現場検証及び解説

 

まず、凡と聖の解説から試みます。これを凡夫と聖人のことを言っている、ととるともうダメです。とんでもない誤解が生じます。ご注意ください。

凡は現象世界のことです。差別の世界とも言えます。言葉の世界、時空間で展開する多様な世界、有限の世界です。この世界ことは、私たちはよく知っています。

聖は即今です。平等の世界です。誰にでもありますが、未悟の人間に意識化されることは稀です。覚者はソレをよく知った人です。言葉にならない世界、無時空間の単一世界、不変であり、永遠無限の世界です。

凡と聖は、差別と平等と同じく、別のものではありません。コインの裏表のような関係です。ですから、聖なるものをもたない凡夫はいませんし、凡なるものをもたない聖者も存在しません。肉体をもって存在している以上、凡なるものに関わらずにはいられません。ただ、凡夫は凡なるものの奴隷ですが、聖者は凡なるものの上位にいますから、それを使うのです。

臨済の問いは高級です。凡夫に向けた問いではありません。凡夫は聖なるものを知りませんから、「凡か聖か」と問われても、意味を解せません。

この問いは聖者に向けられたものです。意訳してみましょう。「聖者であるあなたは当然、凡の世界も聖の世界もご存知でしょう。我々禅僧はこの二つを行き来する者ですが、あなたはどんな立ち位置で、この二つを使いこなすのですか」少し言い過ぎかもしれませんが、こんな感じです。

象田は「ワシはありのままだ」とそれを示します。悪くないと思います。しかし、臨済は生ぬるいとみたのでしょうか。そのあたりは、テキストからはうかがい知ることはできません。

喝し、また象田の指導にダメ出しして、去って行きます。

 

短かったので、もうひとついきましょう。

 

①読み下し文

明化(みょうけ)に到る。化問う、来来去去して、什麼(なに)をか作(な)す。師云く、祇(た)だ、草鞋(そうあい)を踏破(とうは)せんと図(はか)るのみ。化云く、畢竟作麼生(ひっきょうそもさん)。師云く、老漢は話頭(わとう)も也(ま)た識(し)らず。

 

②私訳

臨済は明化和尚のところに到った。明化は問うた。

「行ったり来たり、何をしているのだ」

臨済「草鞋(わらじ)を踏み抜こうとしております」

明化「つまり、何なのだ」

臨済「このオヤジ、公案問答も知らんのか」

 

現場検証及び解説

 

中国人は論理的思考よりも、イメージ思考に長けていたように思います。何しろ、約10万字もの漢字を生んだ国ですから、当然といえば当然です。禅の文献を読む際も、情景を思い浮かべ、画像的に解釈を試みれば、ああなるほどね、という理解が生まれます。今回は、前回わからなかったところが突然わかり、よっしゃー!と雄たけびを上げました。それをご披露します。

明化和尚は、「行ったり来たり、何をしているのだ」と言います。これは、そのまま臨済の遊行ととってもいいし、時空間の平面、つまり現象世界をウロウロする意識全般のことを指している、ととっても面白いです。

臨済は「草鞋(わらじ)を踏み抜こうとしております」と答えます。原文は「踏破草鞋」です。しかし、これを「草鞋を擦り減らす」ととらえると、「一生懸命歩いているだけですよ」みたいな解釈になってしまって、わかったようなわからんような所に着地してしまいます。私も最初はそのような解釈しかできませんでした。

そのようなときは原文に当たるに限ります。原文は「踏破草鞋」です。踏破は垂直の力がはたらいています。そうなんです。これは即今を暗示しているのです。「地平(平面上・時空間)をウロウロしているね、君は」と言われたので、「いえ、私は垂直軸の即今(無時空間)を深めようとしてるんですよ」と。そのことを「草鞋(わらじ)を踏み抜こうとしております」の言葉で提示し、明化に謎かけしているのです。

そして、それに明化が気づかないため、「このオヤジ、公案問答も知らんのか」となります。臨済は公案問答を仕掛けたのに、明化はそれに気づかなかった、という話なのです。

「話頭」は古則、公案のことでもあるようです。

 

今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。

 

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