【臨済録】やさしい現代語訳・解説 行録12
こんにちは!
今回は、禅仏教の「平等と差別」の話です。
①読み下し文
大慈(だいじ)に到る。慈、方丈の内に在って坐す。師問う、丈室に端居(たんご)する時如何。慈云く、寒松一色千年別なり。野老花を拈(ねん)ず万国の春。師云く、今古(こんこ)永く超ゆ円智(えんち)の体(たい)、三山鎖断(さだん)す万重の関。慈便ち喝す。師の亦(ま)た喝す。慈云く、作麼(そも)。師、払袖(ほっしゅう)して便ち去る。
②私訳
臨済は大慈和尚に到った。大慈は居間に坐っていた。臨済は問うた。
「居間に坐っているときの(法は)いかん」
大慈「寒中の松は千年その色を保っている(平等)。しかし野に遊ぶ老人は、各地それぞれの春花(しゅんか)を楽しむのです(差別)」
臨済「古今不変、また永遠の円智の体(仏性)は、三仙山が何重もの関を設けるように、(現象界から)隔絶されておりますわい」
大慈は喝した。臨済も喝した。
大慈「それでどうした」
臨済は袖を払って去っていった。
現場検証及び解説
これも臨済の道場破りの話です。今回は禅仏教ではよく語られるところの「平等と差別」の問題が取り上げられています。まず、種明かしをして、それから二人の問答を解説しましょう。
平等とは仏性のことです。認識するもの、つまり生き物は、皆この仏性をもっています。というか、認識エネルギーのようなもの、生命エネルギーのようなもの、のことを仏性と言っています。この仏性は対象化できないもの、私たち自身であるため、科学はそれを発見できません。科学するものが科学するものを、認識することはできないのです。目は目を直接見ることはできません。
凡夫(未悟)は仏性を生きていますが、ソレを知りません。凡夫は自分が有限な肉体をもつ個人だと信じています。仏性であるにもかかわらず、ソレを知らず、仏性を個人と一体化させて生きてしまっている不幸な者、これを凡夫と言います。覚者は仏性を知っています。科学で発見できないものを一体覚者はどのようにして知ったのでしょうか。
ソレをソレとして知る、という特殊な方法(あるいは状態)で、ソレを知ったようです。覚者は皆「ソレは言葉で表現できない」と言います。おそらくそうなのでしょう。私は覚醒(見性体験)していないので、「そういうことらしいよ」という話をしています。
もう一度ザックリとまとめてみましょう。凡夫は有限な肉体としての私しか知りません。実際は仏性でありながら、個人であると勘違いして生きているのです。
覚者は自分の本性が仏性であると知り、なおかつ幻想であると知る個人を、あえて生きています。両者の構造にはどこにも違いはありません。自己認識のみ違います。このことを禅仏教では「平等」と言っています。社会的な差別がないこと、権利の平等のことを言っているのではありません。ご注意ください。
この考えによれば、仏陀や臨済と私は何ら違いはありません。あなたもそうです。安心してください。
もうひとつ付け加えておきましょう。凡夫も覚者も即今を生きています。両者は平等です。
では、「差別」とは何でしょうか。個人差です。急いで付け加えますが、個人は幻想です。個人は存在しません。
仏性は一(いつ)なるもの、分割できないもの、無限のもの、永遠なるものです。しかし、肉体を通じてソレが展開していくと、多様なもの、有限なもの、変化するものになっていきます。この現象世界のことを「差別」と言います。
ですから、平等と差別はコインの裏表の関係です。別のものではありません。世界は、一なるものが多様に展開したものなのです。
大慈和尚の「寒中の松は千年その色を保っている。しかし野に遊ぶ老人は、各地それぞれの春花(しゅんか)を楽しむ」というのは、平等と差別を自然に託して表現しています。美しい表現ですが、回りくどいですね。
臨済はこの平等と差別の見事な表現を認めたように思います。しかし、臨済の次の一句は、むしろ平等を強調したものです。
意訳するとこんな感じです。「古今不変、また永遠の仏性を知る者(私)は、多様で変化に富む現象世界からは隔絶されたところにおりますわい」と。
両者の喝は、気迫のぶつかり合いのようなものでしょうか。意味づけすることは、はばかられます。平等と差別を言う者と、大平等を強調する者と、両者一歩も譲らず、という感じです。
大慈和尚は「それでどうした」と突っ込みますが、臨済は無言を残して去っていきました。
喝が示すもの、無言が示すもの、これが一番法にかなっているようです。
今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。