【無門関】やさしい現代語訳・解説 「禅箴&まとめ」

2023/10/04
 

 

こんにちは!

今回は、最終回です。

 

禅箴(ぜんしん) 禅の戒め

 

読み下し文

規(き)に循(したが)い矩(く)を守るは無縄自縛(むじょうじばく)。縦横無碍(じゅうおうむげ)なるは外道魔軍。

存心澄寂(そんしんちょうじゃく)は黙照(もくしょう)の邪禅。恣意忘縁(しいぼうえん)は深坑(じんきょう)に堕落す。

惺惺不昧(せいせいふまい)は帯鎖担枷(たいさたんか)。思善思悪は地獄天堂。

仏見法見は二鉄囲山(にてつちせん)。念起即覚は精魂を弄(ろう)するの漢。兀然習定(ごつねんしゅうじょう)は鬼家(きか)の活計(かっけい)。

進むときは則ち理に迷い、退くときは則ち宗に乖(そむ)く。進まず退かざるは、有気(うき)の死人。

且(しばら)く道(い)え、如何が履践(りせん)せん。努力して今生に須(すべか)らく了却(りょうきゃく)すべし。永劫に余殃(よおう)を受けしむること莫(なか)れ。

私訳

規則に従うだけの修行は、縄もないのに自分を縛るようなもの。やりたい放題の野放図な修行は、悪魔の仕業。

清らかで静かな心を保とうとする黙照は邪禅。自分勝手に振る舞い周囲を気にかけない禅僧は、深い穴に落ちる。

常にハッキリと気づいおれ、などというやり方は手枷足枷(てかせあしかせ)を嵌(は)めるようなもの。良いの悪いのと思案するのは、地獄天国の迷いの世界。

仏の教え、法の教えをありがたがるのは、二重に鉄の壁で囲われるようなもの。念が起こればすぐ気づくのは、精神を愚弄(ぐろう)する輩(やから)。独りよがりの習禅は無駄な骨折り。

進めば理屈に迷い、退けば宗旨に背(そむ)く。進まず退かずは死人同様。さあ、言ってみよ。どうやって修行するのか。努力して今生ですべてを終えよ。未来永劫に禍(か)を先延ばしにしてはならない。

 

現場検証及び解説

おそらく、当時の中国は国際的だったと思われます。いろいろな宗教が混在していたでしょう。また、仏教にしても禅にしても、様々な宗派が存在していたのでしょう。

この文章で無門先生は、いろいろな宗派の修行法をけなしていますが、当時の人々が読めば、「ああ、あいつらのことね」とわかるような描写なのでしょう。

それにしても、あれはいかん、これもいかん、というわりには、無門先生は「では、こうしなさい」とは言ってくれません。要するに、修行のやり方は自分で考えろ、自分で工夫しろ、ということなのでしょうか。最後の文章がそれを物語っているように思います。

無門関全48則のなかに、ほとんど修行法に関する記述がありません。強いてあげれば第一則なのかなあ。でも、一日中「無と共にあれ」というような方法は、私自身はできないし、他人様にもおすすめできません。しかし、この禅箴を読む限りでは無門先生、修行のツボをよくご存知のようです。おそらく、たくさんの学僧を指導してこられたのでしょう。

私なりに理解したところを以下述べたいと思います。

「規則に従うだけの修行は、縄もないのに自分を縛るようなもの」

禅堂では規矩(きく)といって厳しい規則があるようです。それを守るのも大変そうではありますが、守っているだけではダメだぞと、無門先生は言っているようです。

わかりにくいかもしれませんので、私がこの文章から連想したエピソードを付け加えます。

落合博満(元中日ドラゴンズ監督、三冠王三回の天才スラッガー)という人がいます。この人がyoutubeの動画で新人に向けて「練習はウソをつかない。ただし、人から言われた練習だけやっててもダメ。自分に合った練習をしないと。自分に合うものを見つけるまでが大変なんだけどね」と言っています。また、「全体練習だけこなしているのはかえって楽」とも、どこかで言っていました。

坐禅も同じだと思います。僧堂は最初慣れるまでは大変でしょうが、慣れてしまえばおそらく楽になります。みんなと一緒にルールだけ守って毎日を過ごしていくのは、かえって楽なのかもしれません。一方、たった一人で自分に向き合うような修行になると、「これでいいのかな」と迷いもでてきますし、かえって大変です。

前者のような「こなす修行」では、この狭き門を通ることはおそらく不可能です。どうしても後者のような、迷いつつ進んでいくというような「探究する修行」が必要です。ああでもない、こうでもないと、トライ&エラーを積み重ねながら、自分の修行法を探っていくのです。

私も大変未熟で、拙い人間ではありますが、そうやって修行をしてきたつもりですし、これからもそうするつもりです。安易な方法はおそらくありません。安易に悟る人もなかにはいます。それは事実です。しかし、それは選ばれた人の極まれなケースで、凡人は苦労しないと無理だろうなあ、と思います。

また、このことは「結果(つまり悟りの状態)は同じだが、それに至る道は様々」なのだと思います。修行者それぞれが「たったひとつの自分の方法」を見つけるのです。そして、もしその人が指導する立場に回ったら、その人の成功体験からモノを言うのです。それが万人に通用する方法だとは限りません.

無門だの、至道無難だの、大乗だのというのは、間口を広くするための方便なのであって、指導者自身、本当はそうは思っていません。ただ、初心者をを絶望させないように、元気づけるために、そう謳(うた)うのです。本当は、落合博満さんが言うように「自分に合うものを見つけるまでが大変」なのです。

くれぐれも、「みんなと一緒に修行しているから安心」したり、「修行している自分に酔ったり」しないでください。それは修行ではありません。別の何かです。

そんなやり方では、悟りへのプロセスは起こってきませんし、効果も実感できません。効果が実感できなければ、修行が嫌になってきますし、やめたくなります。が、そこで結論を出すのは早計です。

そのような気持ちになったら、チャンスですから、ぜひ自分の修行法を疑ってください。「こんなやり方でいいんだろうか?」と。疑問が起これば、本や動画を物色したり、他人に尋ねたり、ヒントを探すことが始まるはずです。あなたが法に対して誠実であれば。

そして、何かヒントをつかんだら、「暗記して、はい終わり」でなくて、そのことについて熟考する、吟味する、実際に試してみる、ということを行ってください。それが実践する、トライ&エラーの意味です。

ベースになるのは、瞑想修行です。そして、そのとき腑に落ちなくても、気になる点は記憶されますので、後で「ああ、あれはこういうことか!」とわかるかもしれません。そうなると、修行がうまくいっている証拠です。慢ずることなく、自信をもってください。

常にハッキリと気づいおれ、などというやり方は手枷足枷(てかせあしかせ)を嵌(は)めるようなもの。

念が起こればすぐ気づくのは、精神を愚弄(ぐろう)する輩(やから)。

ここの部分を読んで思ったのは、これはテーラワーダ仏教に対する批判なのではないか、ということ。日本に伝わったのは、中国経由のいわゆる北伝の仏教です。南伝の仏教は最近まで伝わらなかった。しかし、中国は前述したように、国際的な様々な種類の仏教が混在していた。テーラワーダ仏教もあったのではないかと想像します。

テーラワーダ仏教はスマナサーラ長老の布教で、現在日本に広がりつつあります。私も本を通じてテーラワーダ仏教を学んだ者のひとりです。テーラワーダ仏教の修行法は精緻を極めていて、その点では迷う必要はありません。ただ、これを完璧にこなさないと悟れないのなら、私には無理だー!と思わせるような困難さがあります。とてもこれは人間のなせる業ではありませんよ、と音を上げます。

曹洞宗の僧侶で、アメリカ東海岸での布教経験者、藤田一照老師は、スマナサーラ長老との対談本のなかで、そのあたりをチクリと批判されています。テーラワーダ仏教の修行道場から、たびたび修行者が禅の道場に逃げ帰ってくる。「(テーラワーダ仏教で修行すると)かえって自分が重く感じられるようになった」と。その人達に言わせると「禅は大らかでいいよ」ということらしい。

ですが、テーラワーダ仏教の修行法には、お釈迦さまの説かれた法はこのようなものであっただろう、という完璧さと理と迫力があります。それは事実です。ただ、やや窮屈な側面は否めません。

私はテーラワーダ仏教の修行法を信頼しながらも、禅の大らかさ、ヒンズー教の大らかに身を寄せながら修行しています。自分自身で、良いとこ取り、いわばカスタマイズしているのです。「そんなことしていいのか? 不遜であるぞよ!」という方には、このように申し上げたい。

それは、修行をやってみた上でのご批判か? やってみて、やりこなせた上で、君の頑張りは足りない、とおっしゃるのなら、そのご批判を受けて、自分なりに検討してみます。しかし、そうではなく、ご自身が信じる宗教の正統性を言い張りたいだけなら、それは不毛な議論になるから、やめましょう。聖堂の宝の存在を知らずに、その門番に甘んじている方々と話しても、面白くありません。

さて、話しだすときりがなく、とうていまとめにはならないようです。この辺で切り上げましょう。

●引き続き、「臨済録」を私訳・解説してみる予定です。興味ある方はご一読ください。ご感想、ご意見も歓迎いたします。よろしくお願いします。

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2022 All Rights Reserved.