【無門関】やさしい現代語訳・解説 第46則「竿頭進歩」
こんにちは!
今回は、高所恐怖症の方はご注意を。
①本則
石霜(せきそう)和尚云く、「百尺竿頭(かんとう)、如何が歩を進めん」。又た古徳云く、「百尺竿頭に坐する底(てい)の人、得入すと雖然(いえど)も未だ真と為さず。百尺竿頭、須(すべか)らく歩を進めて十方世界に全身を現ずべし」
私訳
石霜和尚は言った。「30メートルの竹竿(たけざお)の上から、どうやってさらに一歩進むことができるか」また古徳和尚は言った。「30メートルの竹竿の上に坐っている人は悟っているといえど、未だ真人とはいえない。この竹竿の上から一歩進み出て、衆生済度に全身を現わしめよ」
②評唱
無門曰く。歩を進め得、身を翻(ひるがえ)し得ば、更に何(いず)れの処を嫌ってか尊(そん)と称せざる。是の如くなりと然雖(いえど)も、且(しばら)く道(い)え、百尺竿頭、如何が歩を進めん。嗄(さ)。
私訳
(お前がそこから)一歩進むことができ、身を(世界に向かって)躍らせることができるなら、(ワシも)尊ばずにはいられないだろう。そうはいっても、さあ、言ってみよ。どのようにその一歩を踏み出すのか。
③頌
瞎却頂門眼 錯認定盤星 拌身能捨命 一盲引衆盲
私訳
あえて第三の眼をえぐり捨て、世間の常識に錯誤していく。身を捨て命をも捨て、盲人になって、盲人の群れを導くのだ。
現場検証及び解説
【本則】
この則は悟るまでの過程ではなく、悟った後の衆生済度を問題にしています。非常にレベルの高い話です。悟った後、山奥で坐禅だけしながら世捨て人のように暮らす、そのような人物像を「穴倉禅」と言って、禅僧は大変嫌います。
そうではなくて、悟った後も凡人たちの群れの中で苦楽を共にする、そのような人物を良しとします。
石霜和尚も古徳和尚も、そのことを「竹竿の上から一歩踏み出す」という比喩を用いて、訴えています。
【評唱】
無門先生も、石霜和尚や古徳和尚と同じ意見のようです。ただ、衆生済度は「竹竿の上から一歩踏み出す」という比喩を用いて訴えるように、大変危険を伴うことのようです。おそらく、衆生済度によって娑婆の空気に再び染まり、境地が逆戻りしてしまう可能性を言っています。
よっぽど気を引き締めてやらないと、ミイラ取りがミイラになってしまうのです。
【頌】
「第三の眼をえぐり捨て」というのは、悟りの眼をあえて捨ててしまい、ということでしょう。「錯誤していく」というのは、世間の常識に染まっていく、ということです。
世間の常識とは、「有我、時空間の存在、物質主義」です。悟りの世界は、「無我、無空間、唯識主義(存在するのは意識のみ。物質は存在しない)」です。真逆の価値観を受け入れて、やっていくわけですから大変です。
それは、眼が見えるにもかかわらず、あえて眼を抉り出して盲人になり、盲人の群れと共に生活していくということです。
そのような人物を禅は良しとします。
今回はこの辺で。
第47則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第47則「兜率三関」