【無門関】やさしい現代語訳・解説 第45則「他是阿誰」
こんにちは!
今回は、他(かれ)が登場します。
①本則
東山演師祖曰く、「釈迦弥勒は猶(な)お是(こ)れ他(かれ)の奴(ぬ)。且(しばら)く道(い)え、他(かれ)は是(こ)れ阿誰(あた)ぞ」
私訳
東山の法演禅師が言った。「釈迦や弥勒も他(かれ)の奴隷なのだ。さあ、言ってみよ、他(かれ)とは誰か」
②評唱
無門曰く。若也(もし)他(かれ)を見得して分暁(ふんぎょう)ならば、譬(たと)えば十字街頭に親爺(しんや)に撞見(どうけん)するが如くに相い似て、更(さら)に別人に問うて是(ぜ)と不是と道(い)うことを須(もち)いず。
私訳
もし他(かれ)のことを知って、それと悟るなら、たとえば繁華街で親父に会うようなもの。さらに他の誰かに問うて本物かどうか確かめる必要はない。
③頌
他弓莫挽 他馬莫騎 他非莫辡 他事莫知
私訳
他(かれ)が弓を挽くわけではない。他(かれ)が馬に乗るわけではない。他(かれ)が非を言うわけではない。他(かれ)が物事を知るわけではない。
現場検証及び解説
【本則】
この則は、他という単語の意味がわからないと、とっ散らかってしまいます。
他は「かれ」とルビが振られています。他(かれ)は、ズバリ真我のことです。仏性、本来の面目、ワンネスと呼んでも差し支えありません。
真我は、私たちに最も馴染みの深いものなのですが、個人であるという間違った感覚が強いため、かえって遠ざけられ、他(かれ)のように感じられます。
他力と自力という言葉があります。私たちは、自力で人生を切り開こうと努力しますが、本当は他力(真我)しか働いていません。自力(個我)で何かをしている、というのは幻想です。
それはお釈迦さまでも弥勒菩薩でも変わりはありません。お釈迦さまという個人は、真我によって動いています。真我が親分、個我は子分です。もちろん、お釈迦さまは個我を超越した方ですので、個人的な感覚はありません。大げさな比喩を用いて言わんとしているのは、偉大な方でさえ同じ意識の構造なのだぞと言いたいのでしょう。
「他(かれ)とは誰か」の質問にあえて答えるなら、「誰でもないもの」あるいは「真我」でしょうか。
【評唱】
他(かれ)は私たちを動かしている親分です。真我を真我として知るという方法で、そのことを知ることができます。しかし、それはかなり難しいことです。他(かれ)の探究にこだわるよりも、自分だと思っている存在について観察し、吟味する方法をお薦めします。
それはともかく、他(かれ)を直に知ってしまえば、そのことで別の誰かの認証は不要です。自分が人間だとわかっていれば、「俺は人間でしょうか?」と聞いて回る必要がないのと同じことです。無門先生は、そのことを言っています。
【頌】
岩波文庫の訳では、ここでの他は「た」とルビが振られていますが、流れとしておかしくないか、と考えました。本則と評唱で「かれ」となっているのだから、頌の他も「かれ」と取るべきではないかと考え、上記のような訳にしてみました。その心は・・・。以下、意訳してみました。
真我が弓を挽くわけではない。弓を挽くのは個人だ。真我が馬に乗るわけではない。馬に乗るのは個人だ。真我が非を言うわけではない。非を言うのは個人だ。真我が物事を知るわけではない。物事を知るのは個人だ。
この訳が正解かどうか、心もとないですが、他を他人と訳すと、全く意味不明です。放っておけなくて、チャレンジしてみました。
今回はこの辺で。
第46則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第46則「竿頭進歩」