【無門関】やさしい現代語訳・解説 第42則「女子出定」

2023/10/02
 

 

こんにちは!

今回は、文殊菩薩VS罔明菩薩。

 

①本則

世尊、昔、因みに文殊(もんじゅ)、諸仏の集まる処に至って諸仏各々本処に還(かえ)るに値(あ)う。惟(た)だ一人の女人有って彼の仏座に近づいて三昧に入る。

文殊乃ち仏に白(もう)さく、「云何(いかん)ぞ女人は仏座に近づくことを得て我は得ざる」。仏、文殊に告ぐ、「汝但(た)だ此の女を覚(さま)して、三昧より起(た)たしめて、汝自から之れを問え」。

文殊、女人を遶(めぐ)ること三帀(さんそう)、指を鳴らすこと一下(いちげ)して、乃(すなわ)ち托(たく)して梵天(ぼんてん)に至って其(そ)の神力を尽くすも出すこと能(あた)わず。

世尊云く、「仮使(たと)い百千の文殊も亦た此の女人を定より出すことを得ず。下方一十二億河沙の国土を過ぎて罔明菩薩(もうみょうぼさつ)有り。能(よ)く此の女人を定より出さん」。

須臾(しゅゆ)に罔明大士、地より湧出(ゆうしゅつ)して世尊を礼拝す。世尊、罔明に勅す。却(かえ)って女人の前に至って指を鳴らすこと一下す。女人是(ここ)に於(お)いて定(じょう)より出ず。

私訳

昔、文殊菩薩が、世尊の集会から諸仏が帰っていく場にでくわした。ただ一人の女人がまだ残っていて、世尊に近づいて三昧に入った。

文殊は世尊に言った。「なぜ女人は世尊に近づけて、私はそうできないのですか」世尊は文殊に告げた。「汝、この女人を三昧から覚まして立たしめ、それを自ら問え」

文殊は女人の周りを三回めぐり、指をパチンと一度鳴らし、今度は女人を乗せて梵天に上り、その神力を用いたが、目を覚ますことはできなかった。

世尊は言った。「たとえ千もの文殊が試みてもこの女人を出定させることはできないだろう。ここより下方、十二億河沙の国土を過ぎた場所に罔明菩薩がいる。そのものなら女人を出定させることができるであろう」

すると、たちまち罔明菩薩が地面より現れ出て世尊に礼拝した。世尊は罔明に命ぜられた。罔明が女人の前に行きパチンと指を鳴らすと、はたして女人は三昧より覚めたのであった。

 

②評唱

無門曰く。釈迦老師、者の一場の雑劇(ぞうげき)を做(な)す、小小(しょうしょう)を通ぜず。且(しば)らく道(い)え、文殊は是れ七仏の師、甚んに因ってか女人を定より出だすことを得ざる。罔明は初地(しょじ)の菩薩、甚(な)んとしてか却(かえ)って出だし得る。若(も)し者裏(しゃり)に向かって見得し親切ならば、業識忙忙(ごっしきぼうぼう)として那伽大定(ながだいじょう)ならん。

私訳

釈迦老師が打ったこの田舎芝居、ちょっとやそっとでは見抜けない。だが言ってみよ。文殊は七仏の一人、どうして女人を定より出すことができなかったのか。罔明は最下層の菩薩、どうして女人を定から出しえたのか。もしここのところが見抜けたら、悩みの真っ只中にありながら三昧境である。

 

③頌

出得出不得 渠儂得自由 神頭幷鬼面 敗闕當風流

私訳

出定なるも、ならざるも、文殊と罔明は自由な働き。鬼神のお面、負けるもまた風流。

 

現場検証及び解説

【本則】

まず、話を整理してみましょう。女性がいて、世尊(お釈迦さま)のそばに寄って、そのまま三昧境(サマーデイ)に入って動かなくなってしまった。

文殊菩薩という大変霊的に高い人物が、女性を三昧から目覚めさせようとあれこれやったが、できなかった。世尊の指示で登場した霊的には低い人物、罔明菩薩(罔明は明るくないということ)が指を鳴らすと、いっぺんに女性は目覚めた、という話です。

また、女性がなぜ世尊のそばに近づけたか、という初期の問題はどこかにいってしまい、霊的に優秀な文殊菩薩には手に負えない問題を、劣っている罔明菩薩が解いてしまったのはなぜか、という問題に焦点が当たっています。

三昧というと禅的にはいい意味で使われることが多いようですが、この女性の場合はむしろ悪い意味で使われているように思います。

新興宗教にはまって家庭をおろそかにする母親、のようなイメージを私はもちました。そのイメージでこの則を解釈してみました。

つまり、このようなタイプの女性には、文殊菩薩のような知的なアプローチよりも、罔明菩薩のような身体的なアプローチのほうがアピールするのではないか、ということです。

文殊は智慧の菩薩、罔明は無明の菩薩です。必ずしも高い霊性をもった人物がいい影響を及ぼすとはかぎらない。霊的には低くとも、相性が良ければいい影響を及ぼすのではないでしょうか。

また、私たちは観念的に高い低いを言いますが、これはあくまでも思考の産物です。素のままの自然には高いも低いものありません。私たちが知的には理解できないような効果が罔明菩薩にあったとしてもおかしくありません。私たちは、思考では歯が立たない現実があることに気づくべきです。そのことを暗に指し示していると解釈してもいいのかもしれません。

 

【評唱】

「悩みの真っ只中にありながら三昧境である」という無門先生のお言葉ですが、私は昔からこういった言説がしっくりときません。「煩悩即菩提」という類似語もあります。意味は同じです。

しかし、私の考えによると、三昧であれば悩みはありません。また、煩悩がない状態を菩提というのではないか、とも思います。禅は矛盾したことを平気でいいますが、それに対する説明はありません。

推察するに、煩悩は菩提という海に浮いた泡のようなもので、本来は同じものだ、ということではないかと思います。煩悩を見つめる眼、それが菩提です。そこがしっかりしていれば問題ありません。しかし、煩悩を見つめる眼が弱く、さらに煩悩に巻き込まれるようでは、苦しみが深くなってしまいます。

煩悩は少ないほうがいいのです。「煩悩即菩提」というと、煩悩まみれのままでいいのだ、と勘違いしてしまいがちですが、そうではありません。ここは注意してください。

 

【頌】

本則では、罔明菩薩に軍配が上がっているように見えますが、そうともかぎりません。文殊菩薩のアプローチが先にあり、罔明菩薩の一撃がきっかけで女性は目覚めたのだ、とも考えられます。

実際の生活の中でも、最後の一撃にスポットがあたりがちですが、経過の段階も結果に関与していることは明らかです。そのことを、無門先生は言っています。

渠は漢和辞典によると、「みぞ、大きい、親分」とのこと。かれ(彼)とも読みます。文殊菩薩のことと思われます。真我、本来の面目、ワンネスの意味で使われることもあります。覚者のことを指すととらえていいのではないでしょうか。

儂は「かれ(彼)、やつ(奴)」あるいは「わし、われ」という意味です。罔明菩薩のことと思われます。

あるいは、「渠儂」は一人の人間の別の側面ともとらえられます。私一人の中に渠の側面(真我、本来の面目、ワンネス)と、儂の側面(個我、自我、エゴ)が混じり合っています。便宜上、言葉を別にしていますが、二つあるわけではありません。真我と個我はひとつのものです。

頌は、そういった含みをもたせた詩なのだと思って読むと、味わい深いです。わかりにくいけど(笑)。

今回はこの辺で。

 

第43則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第43則「首山竹篦」

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2022 All Rights Reserved.