【無門関】やさしい現代語訳・解説 第31則「趙州勘婆」
こんにちは!
今回は、意地悪ばあさん登場!
①本則
趙州(じょうしゅう)、因みに僧、婆子(ばす)に問う、「台山(たいざん)の路(みち)、甚(いず)れの処に向かってか去る」。
婆云く、「驀直去(まくじきこ)」。僧纔(わずか)に行くこと三五歩。婆云く、「好箇(こうこ)の師僧(しそう)、又た恁麼(いんも)にし去る」。
後に僧有って州に挙似(こじ)す。州云く、「我が去って你(なんじ)が与(た)めに這(こ)の婆子を勘過(かんか)するを待て」。明日便ち去って亦是(またこ)の如く問う。婆も亦た是の如く答う。州帰って衆に謂(い)って曰く、「台山の婆子、我れ你が与めに勘破(かんぱ)し了(おわ)れり」。
私訳
趙州の所の修行僧が、ある(茶店の)婆さんに問うた。「五台山への道はどっちだ」
婆さんは答えた。「真っ直ぐ行きなされ」。僧が数歩行きかけると、婆さんは言った。「見どころのある僧かと思えば、やっぱり同じように行きなさる」。
後にある僧がこの話を趙州和尚にした。趙州は言った。「よし、ワシがお前たちのために、その婆さん(の境地)を調べてやろう」翌日、趙州は婆さんの所に行き、同じように問うた。婆さんも同じように答えた。趙州は帰ってきて衆僧たちに言った。「五台山の婆さんを、ワシはお前たちのために、調べ尽くしてやったぞ」
②評唱
無門曰く。婆子只だ坐(い)ながらに帷幄(いあく)に籌(はか)ることを解(げ)して、要且(ようか)つ賊(ぞく)に著(つ)くことを知らず。趙州老人は、善く営を偸(ぬす)み塞(さい)を劫(おびや)かすの機を用ゆるも、又た且つ大人の相無し。検点し将(も)ち来たれば、二人俱(とも)に過(とが)有り。且(しば)らく道(い)え、那裏(なり)か是れ趙州、婆子を勘破(かんぱ)する処。
私訳
婆さんは、ただとばりの中で座ったまま、分かったつもりになっている。賊が入って来たことには気づかない。趙州老人は、婆さんの城をよく攻略しえているものの、これまた大人の態度ではない。よく点検すれば、二人共に間違いがある。さあ、言ってみよ。趙州が婆さんを見破った点はどこか。
③頌
問既一般 答亦相似 飯裏有砂 泥中有刺
私訳
問いが同じなら、答えが似るのは当然のこと。ご飯の中に砂がある。泥の中には刺がある。
現場検証及び解説
【本則】
この則は、明確にこうだと断言しずらい内容です。私に読解力がないのではなく、無門先生がそうしています。しかし、たぶんこうだという話をでっち上げますので、皆さんで吟味してみてください。
則をなぞるように、一度通してみてみましょう。
趙州和尚の所にいる修行僧が、旅の途中で茶店の婆さんに道を尋ねます。ちなみにこの婆さんただものではありません。禅に通じた婆さんで、通る修行僧を質問して境地を試しています。
第28則でも出てきました。若き徳山をやり込めた婆さんがいましたね。あれと同一人物なのかどうかはわかりません。まあ、禅の文献の中にときどき登場するやり手ババアというキャラクターです。
台山とは五台山のことで、文殊菩薩信仰の霊場です。テキストには明記されていませんが、台山への道を問うということは、暗に「法の在りか」を問うている、ととってもよさそうです。
それに対して婆さんは「真っ直ぐ行きなされ」と指示します。修行僧が言われた通りに真っ直ぐ行こうとすると、苦言を呈します。どうやら「素直に従う」ということが禅仏教を学ぶ上で良くないことだ、ということのようです。私はそう解釈します。その解釈は後に述べることにして、先に進みましょう。
修行僧は、訳が分からないが、婆さんに貶(けな)されたように感じたのでしょう。寺に戻ってその話をします。回りまわって、その話が趙州和尚の耳に入ります。和尚は「この婆さんを見破ってやる」と豪語して、翌日その茶店に向かいます。
前日修行僧とした会話と同じ会話が、今度は趙州和尚と婆さんの間でなされます。ただひとつ違うのは、修行僧は「真っ直ぐ行きなされ」の意味が分からず、おそらくムッとしたこと。趙州和尚は「真っ直ぐ行きなされ」の真意を理解し、おそらくニヤッとしたことです。
しかし、テキストを読むだけでは、そのあたりの消息はうかがい知れず、無理に解釈しようとすると、妄想状態に陥ります。テキストを読むだけではわからないという点で、第11則の「州勘庵主」を思い出します。このときもどういうわけか趙州が関係していますね。
さて、私の解釈を述べます。勘どころは「真っ直ぐ行きなされ」に修行僧が素直に従った、という点にあるように思います。仏教を学ぶにあたってある種の素直さは必要です。しかし、素直過ぎるのは禁物です。
仏教の本質を知るためには、生きているというこのことは一体なんなのか、真剣に問う必要があります。真剣であれば、教えを吟味し、徹底的に自分で調べつくします。しかし、得てして人間は吟味を省略してしまいます。「ああ、この方の言うことだから、確かだろう」と安易に受け入れてしまうのです。そうすると、誤解に誤解を重ねるような具合で、知識は増えますが、一向に真理には近づけません。
警告しておきます。「習う」了見で仏教を学んではいけません。教えを実体験(瞑想修行、心の観察)の中で確認してから、受け入れてください。確認しないままのものは身にならず、ただの暗記になってしまい、まったく応用が利きません。つまり、役に立ちません。仏教は実際に役に立つものです。
私たちは生まれてから物心つくまで、様々な既成事実を受け入れています。個人であること、物が意識の外部に存在すること、空間が存在すること、時間が存在すること。以上のことは、社会の常識を形成する上で、基本的な概念です。それらを私たちは大前提として受け入れてしまっています。どうしてでしょうか。
それはおそらく、親が、世間が、学校がそう言ったからです。自分で吟味して受け入れたわけではありません。仏教はこれと真逆のことを言います。個人は存在しない、物と呼ばれるものは意識の中に存在する(存在するものは意識だけ)、空間は仮想である、時間は仮想である。これが仏教の教えであり、真実です。
ですから、今まで吟味せずに受け入れてきたこと(世間一般の常識)をそのままにして、仏教を受け入れることは不可能です。
世間一般の常識に大疑団を起こし、一方で仏教の教えを徹底的に自分の体験の中で吟味する・・・そのような厳しい試練を経なければ仏教はわかりません。このように言えば、少しはこの則の修行僧の、どこに瑕疵(かし)があるのか、少しはわかってもらえるのではないでしょうか。
以上、私の解釈です。
【評唱】
この評唱は、本則の後半、趙州が婆さんを見破る場面についてのコメントです。婆さんが蜘蛛の巣を張るようにして、修行僧を試しにかかっている様子、趙州和尚がそれを攻略するの図が、装飾的に語られています。
しかし、肝心の「婆さんのどこを見破った」のかは、無門先生は説明してくれません。「見破った点はどこか、言ってみよ」とけしかけはしますが、テキストからはうかがい知れず、うっかり言えばしかられそうで、多分こうだろう、ということしか言えません。
ただ、趙州和尚が婆さんの境地を見抜いた、ということは大した問題ではないような気もします。肝心なのは「言われたことに素直に従う」という点だと、私は思います。
「二人共に間違いがある」というのは、境地を試したり、見破ったりするばかりで、修行僧の教育には何の役にも立っていないぞ、ということのように思いました。
なぜ婆さんに揶揄されたのか、修行僧が反省してそれに気づけば、婆さんの一言も無駄にはなりませんでした。しかし、修行僧はただ腹を立て同僚に愚痴をこぼしただけだったようです。それが趙州和尚の耳に入り、婆さんとのバトルに話は進みます。趙州和尚は修行僧の教育よりも、婆さんとの果し合い(?)に興味があったようです。
修行僧は何も学ばぬまま、放置されます。これでは、とうてい教育の場とはいえません。
このような点を、無門先生は「二人共に間違いあり」としたのではないでしょうか。
【頌】
「ご飯の中に砂がある。泥の中には刺がある」とは、なかなか意味深な言葉です。「真っ直ぐ行きなされ」という言葉には、通りいい言葉のようでいて、何かしっくりこないものがある。しっくりこなければ、自身で調べる必要があります。
素直に従うということは、通常良いことのように思われますが、ひとつ間違うととんでもないことになるぞ、ということでしょうか。
いずれにせよ、ご飯の中に砂が混じっていれば気づくでしょうし、泥の中の棘も触れれば痛いはずです。冷暖自知の言葉がある通り、気になる点はわずかなことでも放置せず、疑問として付箋を付けて、記憶の中に残しておくべきです。
ネガティブケイパビリティという言葉があります。「容易に答えの出ない事態に耐えうる能力」ということです。ご飯の中の砂や、泥の中の棘をなかったことにせず、ずっと疑問に思っている(しんどいことですが)、そのような能力が瞑想修行にも必要な気がします。
健闘を祈ります。お互い頑張りましょう。今回はこの辺で。
第32則でお会いしましょう。
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