【無門関】やさしい現代語訳・解説 第14則「南泉斬猫」

2023/10/09
 

 

こんにちは!

今回は愛猫家からは総スカンの残酷なエピソード。

 

①本則

南泉和尚、東西の両堂の猫児(みょうじ)を争うに因んで、泉、乃ち提起して云く、「大衆道い得ば即ち救わん。道い得ずんば即ち斬却せん」。衆対無し。泉、遂に之れを斬る。晩に趙州外より帰る。泉、衆に挙似(こじ)す。州、乃ち履を脱いで頭上に安じて出ず。泉云く、「子、若し在らば即ち猫児を救い得ん」。

私訳

南泉和尚は、東西両堂の学僧たちが一匹の仔猫をめぐって争ったとき、その仔猫を掲げてこう言った。「皆の衆、言い得れば助けよう。言い得れなければ斬り捨てる」学僧より返事がなかったので、南泉和尚はついに仔猫を斬り捨てた。夜になって外出していた趙州が帰ってきた。南泉和尚は昼間の出来事を趙州に話した。趙州は履き物を脱ぎ、頭の上に置いて出ていった。南泉和尚は言った。「お前がそのときに居たら、仔猫を救えたんだが」

 

②評唱

無門曰く。「且(しば)らく道(い)え、趙州が草鞋(わらじ)を頂く意作麼生(いそもさん)。若し者裏(しゃり)に向かって一転語を下し得ば、便ち南泉の令、虚(みだ)りに行ぜざりしことを見ん。其れ或いは未だ然らずんば険(けん)」。

私訳

さあ、言ってみよ。趙州が草鞋を頭に乗せた意味はなんだ。もし、その意味を言うことができたなら、南泉の行いも無駄ではなくなる。まだそれが言えないのなら、南泉は過ちを犯したことになる。

 

 

③頌

趙州若在 倒行此令 奪却刀子 南泉乞命

私訳

趙州がもしその場に居たら、南泉の命令を逆さまにしただろう。刀を奪い去って、今度は南泉和尚が命乞いだ。

 

現場検証及び解説

【本則】

岩波文庫の注によると、南泉和尚は「異類中行」といって「自ら畜生道に落ちて仏道を行ずる」ことを強調されたらしい。その南泉和尚がなぜ、学僧指導のためとはいえ、仔猫を斬り捨てるなどという行為に及んだのでしょうか。

また、「言い得れば助ける」という言葉、何を言うのでしょうか。「仏教の本意」を言えとでもいうのでしょうか。おそらく、学僧たちはそう理解し、そのうえで凍り付き、何も言えずに仔猫を見殺しにしたものと思われます。また、仏教では執着心はご法度です。学僧は仔猫に執着心を起こし、争いになってしまったことを恥じて、やや萎縮していたのかもしれません。「言い得る」ことができずに、仔猫の命が絶たれました。

解釈は先延ばしにして、先に進みましょう。

 

【評唱】

無門先生は仔猫のことよりも、趙州の奇妙な行為に焦点を当てます。趙州は南泉の話には答えずに、頭に草鞋を乗せて行ってしまった。ただの奇行だとしたら、南泉和尚の次の言葉が腑に落ちない。「お前が居たら、仔猫を救えたんだがなあ」南泉和尚はこの「頭に草鞋」という謎がわかった様子。わかったうえで趙州を高く評価した模様です。

さて、次の頌にて、私の見解を述べたいと思います。

 

【頌】

この則は頌の部分が種明かしになっています。

「趙州がもしその場に居たら、南泉の命令を逆さまにしただろう」

趙州の「頭に草鞋」という行為は「下のものを上に持ってくれば良かったんじゃないの」という意味です。

下のものを上に持ってくる、とはどういうことでしょうか。

「言い得れば助ける」に対して「助けて下されば言いますから!」と懇願すれば良かったのです。あるいはただ「助けてください!」と仔猫の親に成り切って訴えれば、おそらく南泉和尚はパッと仔猫を離したはずです。また、「異類中行」の南泉和尚ですから、仔猫に成り切って「ニャオー!」とでも言えばよかったのかもしれません。

下手に「何と答えるべきか」と思案してしまったのが間違いです。

「刀を奪い去って、今度は南泉和尚が命乞いだ」というのは、おまけみたいな句で、真面目に取らなくてもいいのではないでしょうか。難所を切り抜けたら、今度は仔猫に刃を向けた南泉和尚が咎められる番だ、くらいの意味ではないでしょうか。

禅はことさら表現をおおげさに、芝居がかった構図にしていく傾向があるように思います。この話も実話かどうかわかりませんが、刺激的で印象深い話にはなっていますね。「無門関」の読解は、過剰な装飾部分をそぎ落として、骨組みをたどっていった方が、間違いがないように、私は思います。

皆さんはこの話、どう思われますか。猫好きには全くいただけない話ですね。

第15則で、またお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第15則「洞山三頓」

 

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