【無門関】やさしい現代語訳・解説 第7則「趙州洗鉢」

2023/09/11
 

こんにちは!

今回は食器洗いのお話です。

 

①本則

趙州(じょうしゅう)、因(ちな)みに僧問う、「某甲(それがし)、乍入叢林(さにゅうそうりん)。乞(こ)う、指示したまえ」。州云く、「喫粥(きっしゅく)し了(おわ)るや」。僧云く、「喫粥し了れり」。州云く、「鉢孟(はつう)を洗い去れ」。其の僧、省あり。

私訳

趙州和尚に、ある僧が問うた。「私は初めてこの叢林にやってまいりました。どうかご指示をお願いします」。和尚は言った。「粥は食べたのか」僧は言った。「お粥はいただきました。」和尚は言った。「茶碗を洗っておけ」。その僧はハッと気がついた。

 

②評唱

無門曰く。「趙州、口を開いて胆(たん)を見(あらわ)し、心肝(しんかん)を露出す。者(こ)の僧、事を聴いて真ならずんば、鐘を喚(よ)んで甕(かめ)と作(な)す」。

私訳

無門曰く。趙州和尚は口を開き、諸肌(もろはだ)を脱いで、その真心をむき出しにした。もしこの僧がこれを聴いて真理を見ないならば、鐘を甕と間違えるようなことになる。

 

③頌

只爲分明極 翻令所得遅 早知燈是火 飯熟已多時

私訳

ただ極めてハッキリと違いを示した行為なので、かえって気づきにくいのだ。とっくに手にしている灯(仏の教え)が火(真理を照らす明かり)だと知れば、飯はすでに炊きあがっているのだ。

 

現場検証及び解説

【本則】

初めて趙州和尚の叢林にやってきた僧が、この修行道場の大まかなガイダンスを欲して質問したところ、上記のような会話になった、ということです。初めてやってきたわけですから、そこのトップの指導者に指示を仰ぐという行為は、一般的にみれば感心なことだと思われがちですが、禅ではそうではありません。

なぜそうなのか、という疑問にそって、説明してみたいと思います。

人は未知を恐れます。前もって知っておきたいのです。言い換えれば、未知を既知に変換して、安心したがります。たとえば、初めて外国旅行へ行く場合、目的地のガイドブックを買って予習しますね。お金の問題、言葉の問題、宿泊の問題、移動の問題などなど、これらの問題を一応わかっておきたい。そう思うのではないでしょうか。

現場に行ってみないとわからないことがあるにもかかわらず(ガイドブックの情報が古いかもしれない)、そうして準備します。

これは、行く先のことを学ぶという目的の他に、未知のことを既知に変え、安心したいという欲求があるからです。すべてを一望俯瞰して、自身の知の体系にすべてを組み入れ、安心してしまいたいというのは、人間の根源的な欲望なのかもしれません。

この欲求が高じて「外国は初めてなので、なんだか不安・・・」と思う方は、旅行会社のパック旅行を申し込みます。添乗員がなんでも面倒を見てくれますから、安心できます。しかし、それだと旅の面白味が半減するのではないでしょうか。決まったコースを効率良く回って、食事の心配もないわけですが、なんだか物足りない気がします。

逆にバックパッカーの場合はどうでしょう。片言英語しかできない一人旅はかなり危険度が増します。ですが、現地の人と話す機会も自ずから増え、食事もその都度自分で調達、あるいは選択しなければなりません。面倒ではありますが、そこに面白味があります。また、こちらは旅をする力、人間力ともいうべき力が養えますが、パック旅行ではそうはいきません。添乗員がその部分を肩代わりしてくれるわけですから。

禅では出たとこ勝負を重んじます。準備せず、即今即今で行じていくことを良しとします。上の例でいえば、バックパッカーを評価し、パック旅行を否定します。なので、ガイダンスを求めた時点で、この質問僧は「パック旅行化」に踏み出してしまったわけですから、禅的には✖です。

しかし、対話をよく読んでみましょう。趙州和尚は「粥は食べたのか」と問うています。それに対して質問僧は「粥はいただきました」と答えています。ちゃっかり粥は食べているんですね。

そこ、指示いらんかったんかい! という感じですが、遠方から到着して腹ペコだったのでしょう。見ると飯の時間らしい、そこにいる僧をつかまえて聞いてみると、どうやらよそ者でもありつけるらしい、やれ幸いと飯にありついた・・・バックパッカー並みのたくましさです。禅的にはこれは○なのです。「寒来たらば依を重ね、飢え来たらば飯を喫す」の禅語もあります。

しかし、腹が一杯になって落ち着くと、急にいい子ちゃんぶりを発揮しだします。叢林のトップにいる和尚に面会して「どうか指示を・・・」なんて言い出した。「パック旅行」に一歩足を踏み出したのです。

趙州和尚は「禅僧が指示なんぞ求めてどうする、馬鹿者め!」なんていいません。「飯は食ったのかい」と非常に優しい。僧は「いただきました」と答える。それに対して「茶碗を洗っていおけ」という指示。この言葉がこの則の一番の謎です。解説を試みてみます。

「茶碗を洗っておけ」の茶碗とは、どの茶碗なのでしょうか。新米僧が食べた粥の入った茶碗のことでしょう。しかし、食べたのはついさっきかもしれませんが、すでに洗われてしまっているでしょう。間に合いません。過去のことは取り返しがつきません。言っても仕方がないことです。洗うべき茶碗はどこにもありません。それは架空の茶碗です。

そうです。趙州和尚は言っても仕方がないことをわざと言いました。それは暗に「お前が欲しがっている指示とやらは、この架空の茶碗と同じく、観念的なものだ。そんなものを求めるのはやめよ。到着したのち、お前は言われなくとも粥を食った。そのように今後も行じなさい」と言っています。

決してわかりやすい言い方ではありません。誤解を生む言い方です。たとえば、新米僧はこう思ったかもしれません。「あ、しまった。食べたあと、ちゃんと茶碗を洗っておくべきだった。わかりました。これからはそうします!」と。

しかし、それでは趙州和尚が示した教えを受信したことにはなりません。また、こう思う可能性もあります。「俺は食べたあと、ちゃんと茶碗を洗ったぞ。どうして和尚はこんなつまらない指示を俺にするのか・・・」

「その僧、省あり」とありますから、何かの気づきはあったと思われます。前者であれば悟りへの道が開かれますが、後者であれば見込みはありません。

 

【評唱】

無門先生は趙州和尚の行為を「法を露わに表現した」と讃えていますが、どこが露わなんでしょうか。ハッキリ言って、わかりにくい。本則を読んで、評唱を読むと、ますますわからなくなる。これが無門関の特徴です。

普通に読むと前述の後者の理解になります。私も最初はそう思っていました。ただ、無門先生の評唱で、また一捻りされているようで、さらに頭を捻ったものです。この理解で果たして正しいのだろうかと。

ケレン味たっぷりに演出されるので、禅の初心者は迷子になります。この無門関という本、明らかに初心者向けではありません。また、禅を順序立てて学んでいく教科書でもありません。

私見ですが、貴族階級向けの判じ物のような読み物として企画されたものではないかと思います。訳していて、そう思います。

鐘を甕と間違えるとはどういうことでしょうか。鐘を上下逆にすると甕になります。和尚の言葉を「そうか、架空の茶碗は洗えない。これからは前もって準備するのでなく、その場その場で行じていこう」と思ったら鐘(正解)ですし、「これからは食べたら、茶碗を洗います」と思ったら甕(間違い)なのです。

 

【頌】

趙州和尚はハッキリと示したつもりでしょうが、それでもやっぱりわかりにくい。この詩で無門先生はそれを認めます。

灯は辞書によると「仏の教え」の意味があるらしい。火は気づきのことではないでしょうか。思考に惑わされていない純粋な気づきは、物事の本質を明らかにします。本則の対話が後者の理解になるのは、思考過剰に原因があります。何でも思考でさばこうとする、コントロールしようとするので、そうなります。

ただ見る、ただ気づくという見方は高度な認識方法です。思考が出しゃばると、かえって本質が見えなくなるのです。

飯が炊けているとは、本則の粥に掛けて、修行が熟することを言っています。思考より上位にある気づき(純粋な認識作用)に気づけば仏法はわかります。

他に何も身に付ける必要はありません。元々あるものに気づくこと、これがポイントです。そのためには思考という厄介なものをどう扱うかが、もうひとつのポイントのように思います。ここをもう少し掘り下げたい気がしますが、今回はこの辺で。

 

第八則でお会いしましょう。

次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第8則「奚仲造車」

 

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