【無門関】やさしい現代語訳・解説 第3則「倶胝竪指」
こんにちは!
前2回の投稿について、恐る恐る知人に尋ねてみたところ、とりあえずわかる内容にはなっているようで、ホッとしています。と同時に、気を良くしちゃってる今日この頃です。
さあ、元気を出して、第三則に取り掛かりましょう。
①本則
俱抵(ぐてい)和尚、凡(およ)そ詰問有れば、唯だ一指を挙(こ)す。後に童子有り。因みに外人問う、「和尚、何の法要をか説かん」。童子も亦た指頭を竪(た)つ。抵、聞いて遂に刃を以てその指を断つ。童子、負痛号哭(ごうこく)して去る。抵、復(ま)た之れを召す。童子、首を廻(めぐ)らす。抵、却って指を竪起す。童子、忽然(こつねん)として領悟す。抵、将に順世(じゅんせ)せんとして、衆に謂って曰く、「吾れ天竜一指頭の禅を得て、一生受用不尽」と。言いおわって滅を示す。
私訳
俱抵和尚はふだん問答を迫られると、ただ一指を挙げて見せた。あるとき童子が留守番をしており、客に「ここの和尚はどんな法を説くのだ」と問われ、一指を挙げて見せた。
和尚はこれを聞いて童子の指を刃物で断った。
童子は「痛い!」と泣き叫んで去ろうとした。
和尚はこれを呼び止めた。
童子は振り向いた。
和尚は一指を挙げた。童子はたちまち全てを悟った。
俱抵和尚がまさに遷化せんとするとき、衆僧に向かって言った。「ワシは天竜一指頭の禅を継いだが、一生かかっても使い切れなんだ」そう言い終わって、滅せられた。
②評唱
無門曰く。「俱抵ならびに童子の悟処、指頭上に在らず。若し者裏(しゃり)に向(お)いて見得せば、天竜、同じく俱抵ならびに童子とは、自己と一串(いっかん)に穿却(せんきゃく)せん」。
私訳
無門曰く。俱抵と童子の悟りの見解は、一指上にあるわけではない。もしここのところがわかったら、天竜、俱抵、童子とお前自身は、グサッとひとつに串刺し(全く同じ)じゃ。
③頌
俱抵鈍置老天竜 利刃単提勘小童 巨霊擡手無多子 分破華山千万重
私訳
俱抵は老天竜(の法)を虚仮(こけ)にして、光る刃で小僧を試す。巨霊(これい)は手を挙げた独り者(単純なもの、一なるもの、ワンネス)、分裂した華山は千にも万にも(複雑化する、多なるもの、個別化)。
現場検証及び解説
痛そうな話です。童子とは一体何歳くらいなんでしょうか。現代なら児童虐待で親に訴えられるケースです。それにしても、童子が指一本失って得た境地が気になるところです。ここはひとつ、童子の身になってこの則をたどっていきましょう。
【本則】俱抵和尚は「仏法とは何か?」と問われたら、指を一本挙げて見せた、という話です。この指を垂直に立てた状態は何を示しているのか、説明してみます。そうでないと、毎回申し上げますように、わかったような、わからんような話になってしまいます。ここをまずハッキリさせましょう。
一指は即今のことです。即今に禅の鍵があります。即今は誰にでも共通してあるものです。覚者も凡夫も違いはありません。ただ、覚者は「ソレをソレとして知る」という特殊な体験をして、ソレを体得しています。それに対して凡夫は、ソレ(即今)をダイレクトに知るという体験がありません。即今(無思考)から思考に常に逸れ続けている、それゆえに迷いの世界をウロウロします。
俱抵和尚は即今を、垂直に立てた一本指で表現しました。もちろん内面も即今、つまり無思考状態です。それは無思考状態であると同時に、無時間、無空間の状態でもあります。不思議に思われるかもしれしれませんが、この世には確かに時空間という水平面に垂直に交差する、点のような即今(無時空、無思考)があります。
比喩を使って申し上げます。ファストフードの飲み物を想像してください。カップの上にフタがあります。フタに垂直にストローが刺さっています。フタの面が時空間です。ストローが即今です。
俱抵和尚はストローの境地を一本指で表現しました。
少し脇道に逸れますが、禅は難解なようでいて、この即今をひたすら指示します。ほとんどそれだけなのです。臨済禅師の喝(カーッという大声)も、この即今をダイレクトに表現しています。徳山和尚は棒で学僧を打って指導したそうですが、これも打たれた瞬間に感じるであろう即今を示したのです。
これらは、言葉に依らないダイレクトな指導です。言葉でやり取りすると誤解が生じやすいのです。禅僧はそれを避けて、即今をまさに直指するのです。
俱抵和尚の一本指もダイレクトな指導だといえます。しかし、仏法を他者に伝えることは非常に難しいものです。ダイレクトに表現しているつもりでも、誤解が生じます。童子がその例です。和尚のやることを何の理解もないまま、真似をしました。和尚の一本指は、まさに即今を、仏法を体現した一本指です。童子の一本指は形を真似ただけで、中身はありません。頭の中は妄想だらけにもかかわらず、指先だけで即今を示したともいえましょう。
俱抵和尚はそれを咎めて、罰として童子の指を断ったのでしょうか。それならば、本当に児童虐待でしょう。咎めるだけなら、そこまでする必要はありません。
童子は指を断たれ、泣き叫んでその場を去ろうとします。この瞬間の童子は痛みで一杯です。他のことは何も考えられません。こんなとき、何の計らいもなく悪知悪覚(思考)は蕩尽してしまうのではないでしょうか。無思考状態で振り返り、そこに和尚の一指を見ます。無思考状態と一指がピタリと重なり合います。童子は即今(仏性)をダイレクトに知るという体験をしたのです。「ソレをソレとして知る」体験です。
大変な荒療治ですが、このような指導は誰にでもできるわけではありません。この則では簡略化して書かれていますが、俱抵和尚は普段から童子の行いや修行を見ていたのでしょう。そして、ここぞという機会に勇猛果敢に行動しました。まさに「機を見るに敏」とはこういうことをいうのでしょう。
童子は指一本失っても惜しくない程の悟境を得たと、私には思われます。
俱抵和尚は臨終の際、一指頭を「一生かかっても使い切れなかった」と言います。それは仏法を人に指示し続けたが、それが伝わることは本当に稀だったということです。ですから、童子に伝わったとういことは、俱抵和尚にとっても大変喜ばしいことだったに違いありません。
【評唱】一指禅は天竜和尚から俱抵和尚へ、そしておそらく俱抵和尚から童子へ伝わったのでしょう。しかし、一指禅が伝わったというより、一指禅を通じて「即今を即今として知る」という理解が伝わったといった方が、より正確です。
そして、それがあなたにわかれば、天竜➡俱抵➡童子➡あなたと串刺しされるように、時空を超えて、何の違いもないのだぞと、無門先生はおっしゃっています。
第一則でも申しましたように、私たちの本体は、生命エネルギーのようなものです。それが仏性と呼ばれているものです。科学の定説は「物質から生命が生まれた」というものです。仏教では逆に「生命が物質を通じてはたらいている」と考えるようです。はじめに生命ありき、なのです。
個体が生きているということに関しても逆に考えます。普通は、天竜さんという個人が生きている、と考えます。仏教はそうは考えません。生命が天竜さんを通じてはたらいている、あるいは、生命が天龍している、と考えます。ですので、天竜さんが亡くなっても、生命は残る。
般若心経で不生不滅というのは、この仏性(生命エネルギーのようなもの)を指しています。生まれて死ぬのは肉体だけです。仏性は生まれたことがない。ずーっとある。個体が死ぬときも仏性は個体を去るだけで、それ自身は死にはしない。そういう話です。
受け入れがたいかもしれませんが、仏教ではそう考えるし、覚者はそれについて確信があるようです。私は覚者ではありませんので、類推してそういっています。
生命エネルギーのようなもの(仏性)の観点からすれば、天竜も俱抵も童子もあなたも全く同じなのです。
電気製品に例えてみましょう。スマホ・パソコン・電子レンジ・電気スタンド・電卓・バリカン・・・。用途も機能も性能もそれぞれ違うけど、どれも電気で動いています。肉体は電気製品、仏性は電気です。
人間は肉体をケアし続け、できるだけ長持ちさせようとしますが、仏性が通わなくなるほど故障してしまったり、老朽化してしまったら、そこで肉体は死に、仏性は去るというのが仏教の見解なのです。
【頌】俱抵が天竜をコケにした、というのはどういうことなのでしょう。おそらく、一指を示す指導法を一指を切る指導法に変えてしまったことを指しているように思います。罵詈雑言を浴びせながらも、実はその者の禅的境地を認めている、という大変ややこしい褒め方が、唐代中国にはあったようです。これを抑下托上というそうですが、これもその例なのでしょう。
次の句の「小童を勘した」の勘ですが、漢和辞典で調べると「よく調べる、罪を問いただす」の意味があるようです。「試す」と訳しましたが、もう少し深い意味あいを込めたかったのです。しかし、いいアイデアがありませんでした。
巨霊(これい)は仏性のことです。俱抵和尚が童子に挙げた一指は仏性が挙げた一指である、と。仏性は生命エネルギーのようなもので、分割することができません。なので「多子無し」、独り者と訳しました。この仏性のことを非二元の教え(ノンデュアリティ)ではワンネスといっています。
次の華山云々ですが、岩波文庫の西村先生の注によれば「中国の神話に見える巨霊神は、もと一つであった山を引き裂いて華山と首陽山を作った」とあります。要は一つであるものが二つに分かれ、それがさらに分裂していく・・・という有様を表現しています。
仏性は一つですが、その現れ方は多様です。森羅万象が仏性の現れです。一つのものが実に様々な現れ方をしている。と同時に、別々であるように思われるこれらは、ただ一つのもの(仏性)の現れなのだ。そういうことです。
少しは仏性についてのイメージが湧いてきたでしょうか。読者の皆さんが、こういったことに興味を持っていただけると、私は大変うれしいのです。
では、また。第四則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第4則「胡子無鬚」