ぼくはこんなふうに瞑想修行本を読んできた
こんにちは!
今回はズバリ読書法です。そんなに読書家ではないのですが、「わからん! わからん!」と身悶えするように瞑想と読書を続けるうち、知らぬ間にずいぶんとその手の本が増えていました。そうだなあ、普通の書棚に2つ分くらい。仏教とヒンズー教とスピリチュアル系の本などなど。すべては悟り、あるいは自分自身の救済のために、本を選び、読み、瞑想修行をし、というここ10数年でした。息子は私の本棚の前で、「この人は悩んでいるんだなあ」と思ったといいます。確かに苦しい時期はありました。ですが、苦しいばかりでもありませんでした。だいたい、苦しいだけじゃ、こんなに読めません。楽しみながら読んでいたというのも、おそらく事実でしょう。そのおかげで、全くちんぷんかんぷんだった仏教(精神世界)が、私なりにわかってきたのです。その内容を皆さんにお伝えすることが、私の希望であり、このブログの目的でもあるのですが、今回は読書法、特に仏教やスピリチュアル系の本の読書法についてお話し、参考にしていただければと思います。では、始めましょう。
天使のごとく繊細に、悪魔のごとく厳密に
どんな本にしろ、「俺が買った本だ、好きに読ませろ」といわれれば、お説ごもっともと引き下がるをえません。ですが、私からみれば、なんだか皆さんあっさりと本を読み過ぎる、という感じがしてなりません。また、今回とりあげるような精神世界に関する本に関しては、私はうるさい。「そんな読み方じゃダメなんだ!」とお節介をしたくなります。以下、そのお節介です。
禅宗では豪快な人物が好まれ、また不立文字なんて禅語もありますので、ややもすると、細かいことをおろそかにする傾向がありますが、私は仏教を学ぶには繊細さが必要だと思っています。文章を読むときにもその繊細さ、または厳密さが必要です。言葉の定義はもちろん、理路や言い回しにも気を付けて読むことが大切です。お釈迦さまも「これ微妙の法門なり」とおっしゃっています。そうしないと、誤解が生まれます。誤解の上に誤解を重ね、はては理解することをあきらめ盲信するか、根性主義の激しい修行に身を投じていくか、どちらかになります。仏教は盲信を強要するいわゆる宗教ではありません。信仰は一切必要ありません。お釈迦さまはこう言いました。「私を尊敬するからといって、私の言うことを鵜吞みにしないでほしい。これが本物の金かどうか確かめるのに、削ったり溶かしてみたりするだろう? そのように私の教えを扱ってほしい」と。これをもう少し詳しく説明します。仏教の基本は修行です。修行とは「心を観察すること」です。これが私たちの基本です。ですから、これをしっかりやって、教えと照らし合わせて、「確かにそうだ」とわかれば受け入れるのです。こういう話もあります。あるときお釈迦さまが法話の後、ある弟子にこう問いかけました。「今の話を受け入れますか?」その弟子は言いました。「いいえ、まだ、受け入れません」その弟子をお釈迦さまはその場でたいそうほめたといいます。仏教ではこのように慎重に教えを取り扱うことが推奨されているのです。ここまでいってしまうと、もう勘の良い方は私がどんな読書法をお話したいか、おわかりになるかもしれません。しかしまあ、せっかくだから、もう少しいわせてください。
納得は赤、保留が青。鉛筆片手にゆっくりと読む。
私の読み方はこうです。まず、一回目はフセンを付けながら読み通します。速読ではありません。むしろゆっくり読みます。一気に読むことはまずありません。10分読んではちょっと休み、また10分読んでは・・・というような読み方です。集中力がないのでしょうが、気にしません。しかし、一日中その本は持ち歩いていますので、暇と体力があるときは、わりと読み進みます。良書の場合は、読了後「これはスゴイ本だ!」となります。そうすると、糊でカバーを本体に貼り付けてしまいます。完全に自分のモノにしてしまうわけです。これで古本屋に売ることはできなくなりました。この本と心中する覚悟ができました。「この本を(自分の)ものにしてやるぞ!」とさらに燃えて読むのです。二回目は線を引きながら読みます。赤(バーミリオン)と青(ペルシャンブルー)の鉛筆が常備されているので、それを片手に読み進めます。納得が赤、保留が青です。線は後でパラパラ見直したときに、そこだけ見ても要点が確認できる(面白く読める)ためのものですので、多すぎないようにします。線を引きながら、一回目のフセンを外していくこともあります。本を自分にとって親しいものにしていく作業ですので、そこはひとそれぞれに好きなようにアレンジしてみてください。そう、だから、要はそこなんです。その本と親しくする、切り結ぶように対決する、本腰を入れて読み込んでほしい。サラッととか、サクッととか、そういう感じでなく、ということです。これは、実をいうと、私が発明した読み方でもなんでもなくて、作家の井上ひさしの「本の運命」や立花隆さんの「知のソフトウェア」などを参考にしているだけなのです。しかし、やってみてその方法が確かなものだとわかりました。井上さんや立花さんは日本の知性といっていい方々です。皆さんもマネしてやってみてください。私が唯一付け加えることができるのは、必ず修行内容(心の観察の内容)と照らし合わせて読んでください、ということです。自分に正直に、素直になることも必要かもしれません。本当にわかったと思い、しかも重要だと思う所に赤、よくわからんけれど重要そうだと思う所に青です。背伸びして知識をたくわえるつもりで読むのではなく、理解のために読んでください。その理解がゆっくりと修行にフィードバックされ、修行が今度は理解にフィードバックされます。そのような良い関係ができてきたら、しめたものです。では、次に理解ということについて、少し念押ししておきます。
理解、納得、会得の三段階
宗教や精神世界の本を読む方は、一度は荒行や苦行に興味をもつのではないでしょうか。私もそうでした。何かそういう激しいことを行うことで、自分が浄化されたり、素晴らしい自分に変身できるのではないかという幻想を抱くのです。そういうことをしてみるのも、あるいはいい経験にはなるのかもしれません。それを否定はしません。私が坐禅修行を始めたきっかけも、坐禅という荒行を行えば新しい自分になれるのではないか、という希望を抱いたからです。しかしその希望は潰え、他の道を歩いてきた結果、今は仏教は理解がすべてだと思っています。お釈迦さまの考えもそうだったのではないでしょうか。 禅では言葉でなく体験せよ、とよくいいますが、このことを私は体験的理解のことだと思っています。その体験的理解が言葉では言い表せないことも、多々あるでしょう。言葉にはならない(あるいはなりにくい。人には説明しづらい)理解も当然あるのだと思います。
そこで、理解を三段階に分けて考えてみました。読書する際の、ということでお考えください。
① 言葉の意味がわかる段階。文章の意味はわかるのだが、納得はしていない。また、この段階では単語が不明という場合もある。たとえば「心」という単語が何を指してそういっているのかわからないと、文章全体の意味がうまく飲み込めない場合がある。他に「精神」「気づき」「自己」「自我」「無我」などの単語が、一体何を指してそういっているのかを、見極めないと話がわからない。また、前述したように「心の観察内容」がはっきりしていないと、単語との対照が不可能なので、そこのところ(修行など)が進まないと本の内容はわかってこない。ですので、この段階では、とりあえずいってる意味はわかるというレベルまで到達することが大切です。言葉の意味を調べることも必要でしょうし、何をいわんとしているのかを知るためには修行や、実験、実体験が必須です。ちんぷんかんぷんなら、あなたにはまだ早すぎる本かもしれませんし、合わない本かもしれません。しかし、何かあると思うならば、その本は書棚に残しておいたほうがいいでしょう。
② 納得の段階。読んでいて「なるほど、そうだよなあ」としみじみ(でなくてもいいんですが)思うこと。腑に落ちる、というやつです。この現象は「心の観察内容」と本の内容(たとえば覚者の言葉)が一致したときに起こります。これが本格的な理解です。上記の赤線が引けるというのは、これです。この段階では、「言い換え」が可能になります。このとき「心の観察内容」と本の内容を対照することができています。これが体験的な理解です。だから、「たとえばこういうことでしょう?」と言い換えができます。これが納得という段階です。この段階をさらに深めていくことが修行の方向になります。さらに「心の観察」を続けていくことにより、さらに発見されていく「内容」もでてきます。また、その「内容」を本の中に見つけることにより「やっぱりそうか」という、より深い理解も生まれます。また、本の中で自分の観察結果を確認することにもなりますから、自信も増します。私が現在やっている修行と読書もこの段階だと思っています。私の印象では、納得の理解は喜びが同時に起こります。喜びが次への修行のモチベーションになります。いい相乗効果が得られるのです。それでも、この段階はまだ理解が浅いような気がしています。おそらく、次の段階があります。
③ 会得の段階。納得の理解が血肉化するとこの段階になるのでしょう。この段階は、理解が体に染みついていますので、「わかっている」の段階がさらに進んで「できる」という段階です。納得してはいたが、いざとなるとその理解に沿って行動できなかった、ということがしばしば起こるものです。新約聖書におけるペトロのように、土壇場で師との関係を否定してしまうのです。私も偉そうに「死はそれほど怖いものではない」などど普段はいっておきながら、いざ自身の死に直面したとき、動転してしまうのではないか、とも思うのです。本当に深い理解があれば恐怖は起こらないでしょう。会得の段階は、私にとって未経験のエリアですので、はっきりしたことはいえません。納得という理解を積み重ねることによって、その境地にいたれるのではないかと思っています。
じっくり読むなら紙の本
さて、なにかヒントになることがあったでしょうか。紙の本が廃れ、電子書籍に以降していく時代です。手前みそかもしれませんが、じっくり読むには紙の本が優れているような気がします。また、タブレット端末で文字を読む習慣が一般化した今だからこそ、じっくり読むことの重要性を訴えたいのです。物事を広く速く処理することが尊ばれる昨今です。そのことが金を生むことは、私も商売人ですので、重々承知しています。それも人生においては重要な側面でしょう。しかし、人生はそれだけではありません。そうですね? 金がすべてですか? 私はそうは思いません。「我々はいったいどういう存在なのか?」と問うことも、また重要だと思います。死が近づいてきたとき、人は誰しもその問題に突き当たるようです。亡くなった方のお家に呼ばれ蔵書を拝見していると、その辺の消息が感じられることもあります。その問題を解決するために、あまたの哲学が生み出され、宗教が生み出されました。それを学ぶのはただ純粋に知りたいからです。若い頃は衒学的(知識を人に見せびらかすこと)に学ぶこともあるでしょうが、年を取ればある意味必死になります。知りたい、わかりたい、救われたい・・・。こういうときの読書こそ、深く知ることに接近できるのではないでしょうか。それは知性のもうひとつの側面、深く、ゆっくりと知るということです。瞑想修行と良書のじっくり読みを、強くおすすめします。では、また!