瞑想修行はうつ病治療に効果的なのだろうか? その1
こんにちは!
ショーコリもなく、このような地味なテーマで文章を書かしていただいてます、藤原です。で、前回、前々回と「自意識」「他人の悪口」とポップなテーマで語ったところ、やや閲覧回数が良く、じゃあ、仏教とか瞑想とかそんなシンキクサイ内容でなく、ごく身近な話題を書いていこうということで、今回はわがうつ病体験を語ってみることにしました。
しかしまあ、うつ病が身近な話題になってしまったというのも、時代ですねえ。私がなった1999年にはこんなにたくさんメンタルクリニックはなかったですよ。それが21世紀にかけて、バタバタできましたから。
今や歯医者よりは少ないけど、眼医者よりは多い、そんな感じです。先日ツイッターでうつ病ネタをつぶやいたところ、予想以上に反応があり、私の体験を共有するのもいいかもしれない、と思ったのもキッカケになりました。ただ、私はうつ病克服を旗印にこのブログを始めたわけではありません。あくまでも一人でも多くの皆さんに、瞑想修行に興味を持ってほしいからなので、最終的にその辺の話に持っていければと思います。では、始めましょう。
大海でおぼれた男のようにさまよった十年
1999年7月10日の朝、私は「うつ病になった」と自己判断し、電話帳で調べた精神科医院に行き、そのような薬を処方されました。一週間前から眠れずにいた末の出来事でした。
うつ病は今でこそありふれた病気ですが、当時はまだ世間にも認知度が低く、精神病であるということだけで、何か触れてはいけないような、忌まわしい印象がありました。何よりも自分がそのような偏見を持っていましたから、そのショックは大きく複雑なものでした。
「こんな病気になってしまって恥ずかしい。いっそガンなら世間様にも申し訳がたつのに。うつ病とは情けない…」そんな不遜(ふそん)なことも考えました。それでも、現代の医療のレベルはある意味大したもので、薬を服用すると良くなってきました。
このときうつ病に対する正しい理解があれば、もう少し後の展開が変わってきたのかもしれませんが、私にその理解がなく、少し良くなってきたのをいいことに、再び「頑張らなきゃ!」とバタバタしてしまったのです。
9月に入った頃、さらに気分が落ち込んで悪化する様子があり、医者を変えました。最初にかかった医者に不信感があったからです。「うつ病なんて2、3ヶ月薬を飲んでいれば治るんです」とおっしゃる。こちらは心を病んでいて話を聞いてもらいたいのに、薬を処方するだけ。何よりもダメだと思ったのは、診察中一度も私の顔を見ないことでした。
カウンセリングをしてくれる医者じゃないと俺は治らないんだ!という、これは一種の思い込みだったんでしょうが、それでも必死の思いで医者を探し、運よく診察を受けることができたのがM先生でした。
初診の際、1時間も黙って話を聞いてくれ、「残念ですがうつ病をこじらせてしまったようです。できれば、店(古本屋を自営していた)を奥さんに任(まか)せてしまって、ご自身は寝ていてください」と言われました。
正直言って、ホッとしました。情けないことではありますが…。店の経営について気に病むことが原因だとの診断だったのでしょう。その重荷をこの人物からしばらくの間取り除いてやることが大切だ、という見立てだったのだと思います。
それから少なくとも3か月、ほとんど寝たきり状態で過ごしました。いきなり店を任されてしまった女房も大変だったでしょうが、私も大変だったのです。下の娘を保育園に送り迎えする以外、ずっと寝ていました。寝床から這い出しては腹を満たして薬を飲むということを、ただただ繰り返しました。
小康を得てからは、「少しずつ店に出なさい」とのM先生の指示に従い、1時間、数時間、午後から閉店まで、というふうに徐々に時間を増やしていきました。そのようにしてその年を越し、翌年5月には精神科を卒業しました。めでたしめでたしとなればこれで話は終わりなのですが、そうはいきませんでした。
その年の冬、うつの症状が再発し、M先生のもとに戻って行くことになります。先生も5月の段階で、そのことはお分かりになっていたようで、「じゃ、ま、とりあえず、一旦終わりにしましょうか」というような微妙な言い回しをされたことを思い出します。
それからの数年は不安定な状態が続きました。突然「また、うつ病になったー!」とパニクり、予約を早めてもらって受診したり、薬が増えたり減ったりを繰り返していました。大海でおぼれそうになっている男が、ときどきブイにつかまってしばしの休息と安心を得、また大海に向かっていく、そんな状態でした。
それでも、M先生のカウンセリングのおかげでさらに安定し、薬を止められるかどうか・・・というところまで回復してきました。ここで医者と患者の思惑の違いが現れます。私としては、「世間からもバカにされるし、薬をやめる方向で頑張りたい」と思いました。しかし、医者の立場からすれば「そんなに強い薬でもないし、血圧の薬のように飲み続けていけばいかがでしょうか」ということになる。
ここが肉体の病気と精神の病気の微妙な違いです。血圧の薬をどうしてもやめたいという人はあまりいないでしょう。でも、精神科の薬をやめたいと思う人は多いのではないでしょうか。それは、精神の病は人格に抵触(ていしょく)するように感じられるからです。
自分でもだらしないと思う。身近な人も内心そう思っているのが感じられる。また、これがどれだけ自分の体質的なものなのか、それとも努力によってどうにかなるものなのか、自分でも判断できない。医者にもわからない。医者にしたら、患者には危険な道を行ってほしくはない。それは理解できます。
でも、私のこの情けない、口惜しい、悔しい気持ちはどうなるんだ! そんなところです。その意を察してか、M先生はわたしのやり方を支持してくださいました。それが最初からうまくいったわけではありません。
一進一退・・・私もギリギリまで我慢するのですが、症状が悪化しそうなとき、これ以上我慢すると仕事に差しさわる、家族に迷惑をかけると思ったときは、ギブアップして薬を飲みました。そして、良くなるとまたやめてみるのです。
ちなみに薬の名はセパゾン、精神安定剤です。ですから、その時期は、うつ病というよりも不安症という病名のほうが近いのかもしれません。10年近くそんな調子でした。さて、病気のことはおおよそ話せたように思いますので、次に瞑想修行とうつ病の関係についてお話しします。
心を観察する手法を学び、やがて効果が現れ始めた
瞑想修行を本格的に始めたのは、2008年10月1日です。始めたきっかけは「夢の御告げで修行が始まったんじゃよ」に書きましたので、興味のある人は読んでみてください。
正確にいうと禅寺で坐禅修行を始めたのですが、ドンドン自分仕様の修行に変化していってしまいましたので、坐禅修行を名乗るのもおこがましいと思い、瞑想修行としております。で、最初のモチベーションとしては、別にうつ病克服を意図したわけではありませんでした。
そうですねえ、幼児の頃より周囲から「弱い子」の烙印(らくいん)を押されて育ちましたから、どこかで「それを克服しなければならない」という思いがあったんです。そこにたまたま在家が毎日坐れる禅寺との出会いがあり、きっかけがあり、ということでそうなったのだと思います。
禅寺との出会いは1999年の春、うつ病になる直前でした。うつ病になった後は、つかず離れずという感じで禅寺との関わりがあり、2008年から本格的に始めた、というわけです。毎日朝早くから坐禅をし、少しずつ自信も出てきたかにみえましたが、「強くなる」のはそう簡単ではありませんでした。
仕事で疲れがたまったりすると不安の症状がでたのです。具体的にいうと、食欲不振に陥りました。最初は「俺はもう大丈夫」な気持ちがあるから、我慢して薬を服用しないでいるのですが、食欲が戻ってこない、だんだん瘦せているという具合で、自分では精神的なダメージを受けているという自覚がないのですが、そうなる。
で、試しに薬を飲んでみると、果たして食欲が戻ってくる・・・。そこで瞑想修行の効果が打ち砕かれるわけで、そのことが私にはこたえました。こんなに頑張っているのに! と悔しいのです。
ここで諦めてしまってはおしまいですが、諦められなかったのが幸いしました。というのは、この手のこと(修行)はややもすると独りよがりになりがちです。ところが私には、うつ(不安症)というおっかない師匠がいたおかげで、この修行に真剣に取り組むことができました。
坐禅(瞑想)のやり方も人一倍工夫しました。本も読み漁りました。禅の文献ではラチがあかない気がしたので、まず、テーラワーダ仏教の本、具体的にいうとスマナサーラ長老の本を読みました。そうすると、不思議に仏教が良くわかりました。
禅の本はわかったような、わからんような、ストレスフルな読後感しかありませんでしたが、長老の本は読めばわかる。修行の仕方が具体的である。その点が私にフィットしました。ですので、コッソリと・・・そんな必要もなかったのですが、テーラワーダ仏教に乗り換えて修行を続けていきました。
禅にはない歩く瞑想もやるようにしました。また、これには異論があるでしょうが、禅には観察という要素が欠けているように思います。テーラワーダ仏教を学んだおかげで、心を観察する手法を学び、やがて効果が実感されるようになりました。
瞑想をされない方にはわからないかもしれませんが、心の動きってめちゃくちゃ速くて、微妙なんですね。瞑想修行によって、そのかすかで素早い動きに観察が追いついてきました。
野球でいえば、豪速球にかすりもしなかったバッターが何度も空振りしているうちに、タイミングが合ってきて打ち返せるようになる。そう、心の動体視力が増してくる感じなんです。
うつや不安は思考の歪みが原因だと言われていますが、それを修正するためにはまず思考の状態を知らねばなりません。状態を知ることについては、瞑想修行は効果的であると言えます。我々が見逃している思考や感情についての洞察力が増すからです。その点は認知療法と似ています。
認知療法はカウンセラーと2人でそれをやりますが、瞑想修行は1人でそれをやるのです。根気もいりますが、時にダメな自分と1人で向き合う事態にもなり(それを避けていては修行は進みません)、辛い思いをすることもありました。
ですが、それを乗り切って得るものに比べれば、大したものではありません。辛い思いの少なくとも100倍の値打ちがそれにはあるからです。
うつ病になったことがある人にはわかるでしょう。朝起きた時の「あああああ!今日も一日が始まるのかああああ」という絶望的な気分がないのです。起きたとき「よし!」という平凡だけど前向きの気持ちがある、こんないいことはありません。そして、そんな気分がいつでもあるってことはスゴイことでしょう?
うつの症状が瞑想修行の道しるべになった
さて、参考になる情報はありましたでしょうか。
あなたがさらに聞きたい点は、おそらくこうでしょう。「瞑想修行を始めるとして、いったいどれくらいやれば効果があるんでしょうか?」
私にそれをお答えする力はありません。その人による、としか言えない。それでも「平均でどれくらいかかりますか?」と食いさがる人のいるかもしれない。それについては、そのときの様子で「1ヶ月」とか「少なくとも1年」とか言うかもしれませんが、それはあくまでも方便で、実は保証の限りではありません。
効果の程は人それぞれであるし、また、初心者向きにはそういう言い方も適当かもしれませんが、中級以上になると効果を期待するようなやり方では行き詰まることになるのです。
別の言い方をすれば、最初はエクセサイズとして始めるのはいいのですが、途中からはそれが生き方として生活全般にいきわたるように行じていかないと成長はできません。
信仰という言葉はあまり使いたくないので、こういってみましょう。あれかこれかの打算的な立場ではなく、このことに全財産をかけるというような一途(いちず)さが求められるし、うまくやっていれば自然にそうなるものなのです。
しかし、それは1、2年でどうにかなるものではなく、10年近くは地道に修行することが必要かと思います。どうです? やる気を失いましたか? このことには一種の必死さ、一途さ、真剣さがどうやら要求されるようなのです。根拠はと問われれば、いろんな覚者の方々がそう言っている、自分の体験からそういえる、周りを見回すと真剣さが足りない人は道を逸れていくという私の観察から、です。
メインタイトルにそって言えば、「瞑想修行は(私の)うつ病治療には効果があった」といえるし、逆に「うつ症状は瞑想修行に効果があった」とも言えます。前項でもチラッと申し上げましたが、うつという嫌な師匠がいたおかげで、必死になって修行に取り組むことができ、寸毫(すんごう)の差を見分けることができるようになり道が開けてきた、と思っています。
すべての人に瞑想修行に興味を持って欲しい。瞑想修行によって人間のエゴイズムを乗り越えることが、人類の最重要課題です。世界平和や環境問題を解決することは大切ですが、その前に自分自身に平安をもたらすことが、さらに大切です。瞑想修行が個人(実は個人は幻想ですが)に平安をもたらし、さらに人類に平安をもたらすことを、切に望んでいます。
では、今回はこの辺で。また、お会いしましょう!