【無門関】やさしい現代語訳・解説 第22則「迦葉刹竿」
こんにちは!
今回は「もう、説法やーめた!」の事件。
①本則
迦葉(かしょう)、因みに阿難(あなん)問うて云く、「世尊、金襴(きんらん)の袈裟(けさ)を伝うる外、別に何物をか伝う」。葉、喚(よ)んで云く、「阿難」。難、応諾(おうだく)す。葉云く、「門前の刹竿(せっかん)を倒却著(とうきゃくじゃく)せよ」
私訳
阿難が迦葉尊者に質問した。「世尊は金襴の袈裟のほかに、あなたに何物を伝えたのですか」迦葉尊者は「阿難」と呼んだ。阿難は応えた。迦葉尊者は言った。「門前の旗を降ろしてしまえ」
②評唱
無門曰く。「若(も)し者裏(しゃり)に向かって一転語を下し得て親切ならば、便ち霊山(りょうぜん)の一会(いちえ)、儼然(げんぜん)として未だ散ぜざることを見ん。其れ或いは未だ然らずんば、毘婆戸仏(びばしぶつ)、早くより心を留むるも、直に而今(いま)に至るまで妙を得ず」
私訳
もしここのところをズバリ言い得るならば、霊山で行われた集会は今だに続いているとわかるだろう。あるいは未だに言い得ないのなら、毘婆戸仏が世尊より早くから修行をしているにもかかわらず、今だに妙法を会得していないことになろう」。
③頌
問処如何答処親 幾人於此眼生筋 兄呼弟鷹揚家醜 不属陰陽別是春
私訳
質問が正しいのか、答えが正しいのか。ここのところに人は眼を凝らす。
兄は呼び、弟は答えて家の恥を晒(さら)す。陰陽に属さぬ境地には格別の春があるのだ。
現場検証及び解説
【本則】
大乗仏教では、迦葉はお釈迦様を継いだ方で第二祖、阿難が第三祖ということになっています。ですから、法を会得した方どうしの会話だと考えられます。
しかしながら、阿難の「釈尊は金襴の袈裟の他にあなたに何物を伝えたのか」という質問は、いかにも俗っぽく愚問です。また、法は伝授されるものではありません。法は各自が自分自身の内に発見するものです。
そういう意味では、この則は第6則の世尊拈花と通じるものがあります。
この愚問に業を煮やしたのか、迦葉は「只今説法中」という印となる旗を下してしまえ、といいます。伝授とか説法とか、本来なら成り立たないことをするのはもうよそう、と迦葉尊者は思われたのでしょう。
ポンとこの会話だけ見せられたら、一般の方々は何のことかわからないでしょうが、禅仏教お得意の「法は言葉では言い表せない」したがって「言葉で伝えることはできない」ということを表現しています。
また、阿難がこんな愚問をするはずはなく、これは作り話です。二人のビッグスターを持ち出し、お芝居をさせて、第三者(読者)に上記のことを暗示しているのだと思います。
【評唱】
無門先生が何をいいたいのか、私にはハッキリとはわかりません。釈尊、迦葉、阿難と最初期の人物を役者として引っ張りだしたので、霊山(釈尊が説法した場所)を置いているのでしょう。
集会が続いている云々は、「法は途切れなく説かれている、なぜなら、法とは私たち自身の事だから」ということでしょうか。
毘婆戸仏云々は、「言い得ないのなら悟ってないぞ」という意味にも取れますし、「悟る悟らない(会得不会得)の消息はないのだ」と言っているようにも思えます。二重の意味を含ませているのかもしれません。
【頌】
「質問が正しいのか、答えが正しいのか」というような想念を起こせば、おそらくダメなのでしょう。これはビッグスター競演「禅仏教は不立文字なり。伝授不成立」というタイトルの映画なのです。
「家の恥を晒す」といいながら、実は評価しています。最後の句、陰陽云々は「質問か答えか、というような二項対立のない境地(すなわち無思考状態)こそ禅の境地であり、至福の境地なのだ」ということです。
やれやれ。
当時の中国の知識人は、この無門関、もっとダイレクトに味わえたのでしょうね。
現代日本人には、説明をてんこ盛りにしないと、スッキリと腑に落ちません。また、私の解釈で正しいのかどうか、無門先生に点検していただきたいところですが、そうもいかないところが大変悩ましい。
では、今回はこの辺で。
第23則でお会いしましょう。
次回の記事:【無門関】やさしい現代語訳・解説 第23則「不思善悪」