瞑想知恵袋 その36 「俺と俺以外」ってホントにそうか?
こんにちは!
前回からの無我の話を続けましょう。できるだけ簡略に問題提起しますので、後はご自身で考える、確かめる作業をしてみてください。
純粋物質は存在するか?
「世界は『関係』でできているー美しくも過激な量子論」(カルロ・ロヴェッリ NHK出版)という面白い本があります。タイトルにもあるとおり、ロヴェッリの主張は(私流にまとめると)「量子レベルで世界を観察すると、物質そのものだけを単独に見ることはできない。少なくとも、観察者の意識との合作で物質は成り立っている」
たとえば、私が机の上のハサミを見ているとします。そこにはハサミという純粋物質は存在していません。私の意識がそれを現出させている。私が見ていないとき、ハサミは存在していません。こう言ったとき、予想される反論は「あなたが見ていなくとも、他の誰か(Aさん)がハサミを見ていたら、それは現実にハサミ単独で、純粋物質としてそこに存在しているのではないか」
いいえ違います。それはAさんの意識が現出させたハサミで、私が現出させたハサミとは別物です。「そんなバカな!」とあなた(Bさん)は言うかもしれません。しかし、私はAさんにも、Bさんにも、成り代わって観察することはできません。微妙に見え方が違うのです。
なぜなら、私たちの認識機能はそれぞれ違うからです。ですから、70億人の人がいて、この机の上のハサミを同時に見たとき、なんと70億種類のハサミがそこに現出するのです。
なぜ、それが一般常識とならずに、同じハサミがそこにある、ということになったのでしょうか。それは、私たちの認識が、思いのほか大雑把であることとも関係がありますが、「別のハサミがある」という真実にしたがってしまうと、世の中がややこしくなるからです。
「おい、せがれ、その机の上にあるハサミを取ってくれ」「おとっつあん、そのハサミっていうのは、おとっつあんが現出させたハサミかい? それとも、あたいが現出させたハサミかい?」なんてやっていたら、仕事が回っていきません。一般にそう見える状態を「良し」として、そういう「お約束(つまり常識)」を元にして、社会は成り立ってきた。しかし、よくよく調べてみると、真実は違っていた、という話です。
ロヴェッリさんも理論化に行き詰った際、友人からナーガールジュナ(龍樹)を読むことを勧められたそうです。ナーガールジュナの思想は「ほかのものとは無関係にそれ自体で存在するものではない」というものです。2~3世紀のインドの仏教僧と量子論が近接してきているのが、現代の知です。
自分と世界の間にハッキリした境界はありますか?
私が大好きなYoutube「Yuikaのご機嫌俱楽部」のゆいかさんが、同じことをやっていましたが、ここでも少しの間心を静かにし、それを試してみましょう。
やっていただくことは、簡単です。いつもの自己観察。坐禅の後でも、またスポーツした後でも、心がリラックスした状態で自分に問うてみてください。
「自分と世界の間にハッキリした境界はありますか?」
皮膚で自分と世界は分け隔てられている? 本当ですか? それは思考がそう言っているだけ、ではないですか? 今此処に在るものを、しっかりと感じてみてください。
考えないで。考えると、世界と自分は分け隔てられます。答えを言ってしまいましたね。そうなのです。思考が世界を分けている犯人なのです。
仏教では、「認識機能のすべては『眼耳鼻舌身意』だと言います。坐禅や激しいスポーツのあとは、うまくいけば頭の中がスッキリしますね。これは『眼耳鼻舌身意』の意の支配力が弱まっているせいです。それほど意=思考は私たちの世界を強力に縛っています。医学でも脳が一番偉いことになっています。
しかし四六時中、意=思考が私たちを縛っているわけでもなさそうです。たとえば私なら、風呂に浸かっているとき、原始林(札幌の円山公園には都市部のすぐそばに原始林があります。アイキャッチ画像は円山原始林です)が見えるベンチで、ボーっとそれを眺めているときなどそうです。
そんなときは、自分を強く意識することはないし、「個人がいる」という感覚は希薄です。また「個人がいない」だけでなく「世界と自分が融合している」ような感覚があるのではないでしょうか。これは大変気持ちのいいものです。
どうでしょう、感じていただけましたでしょうか? 思いのほか、世界と自分はソリッド(固体化)に分離してはいない、と思ったのではないですか? 境が感じられたとしても、モヤっとしていませんか、その境界は。
ところが、リラックスしているその現場に、あなたの嫌いな上司がいきなり現れたとしましょう。こちらに向かってきます。あなたは身構え緊張で身体がこわばります。思考が激しく回転し始めます。上司はあなたの前にやってきました。とりあえず、あなたは「こんにちは」をいい愛想笑いのひとつも浮かべるでしょう。穏やかな時間が台無しです。
しかし、ひとつだけ良いことがあります。それは、このときのあなたの心身を観察できれば、個人がソリッドに立ち上がる瞬間、世界との融合が損なわれていく状態を見ることができるかもしれません。
意の力が勝ちすぎると人は苦しむ
さて、長くなりましたので、まとめにかかりましょう。世界は「眼耳鼻舌身意」の認識の束です。意の力が勝ちすぎると、人は苦しみます。自我意識が強いほど苦しいということです。
意の力が弱くなると、生きやすくなります。意の支配から完全に解き放たれると、悟りの境地と言われている状態に達し、それこには至福の感覚があるらしい。
もうひとつ、誤解されないように付け加えると、自分も世界の一部に過ぎないのです。デフォルト(基本)は「ひとつの世界」なのに、寝て起きてすぐさま「俺と俺以外」(そんなタイトルの本があったなあ)に世界を分割してしまうのです。基本はひとつの世界があるだけ。それを上司に出会う前、心静かなときに確かめてみてください。
そのことを表した言葉が「非二元・ノンデュアリティ」です。禅では「ぶっ続きの境地」、「無縫塔」(碧巌録)、「庭前の柏樹子」(無門関)などと表現しています。
今回はこの辺で。