瞑想知恵袋 その35 自分って何だろう?

 

 

こんにちは!

 

前回は無常を説明し、その流れで無我のことも、ちょこっと触れました。無我を伝えることは、非常に難しいのですが、筆の勢いに任せて、やっちゃいましょう。

 

変化するものは自分ではない

無我に近づくには、いろんな方法がありますが、一番馴染みやすく、良く使われるのが、「自分は何でないか」を列挙していく方法です。そして、残ったものが真実の我というわけです。ルールは「変化するものは、自分にカウントされない」ということです。

ちょっと私の場合を例にして、どういうものなのか、やってみましょう。まず自分であると思うものを主張し(●印)それに対して反論する(➡印)、という形式でやってみます。

 

●私は古本屋の店主である。➡2022年末で廃業し、今は違う職業に就いている。それも一生続けられるかは不明。

●私は15年間、臨済宗のお寺の早朝坐禅会に通い、公案問答を続けた。➡お寺を離れて、坐禅堂とは縁が切れた。

●私は京都の人間である。➡確かに生まれは京都市であるが、1990年に札幌に移住して早34年、帰郷することもほとんどない。もう京都人とはいえない。かといって、道産子でもない。中途半端な流浪の民。

●私は63歳の男である。➡1歳の私もかつてはいたはず。それに、来年の3月になれば、64歳の男、性転換すれば女。異性愛者だけど、内面は女子のようだと他人からは言われる・・・。

 

きりがないので、この辺で止めますが、どれだけ自分(個我)の属性を挙げ連ねても、本当の自分(本来の面目=真我=仏性)は言い表せない。では、何が私であるか。ヒンズー教では、それらの属性をすべて取り除いても、残るものは何か。それは「在る」という感覚です。真我(しんが)とそれを呼びます。認識不可能な単独者、すべての生命体の基盤です。

その基盤の上に属性が乗っかり、個我を形成している。仏陀はそれを「思考・感情・感覚の束で出来ている」と看破しました。心の観察でそれはわかってきます。また、それぞれの要素がセンテンス(文章)を紡ぎ、物語化して自分像(個我ストーリー)を作り上げます。それが一般的に信じられている自分という感覚です。

 

思考は物語を紡ぐ

私は古本屋を開業し、それなりの成功をおさめ、2児を立派に育てあげた」というストーリーも成り立ちます。

一方で「私は古本屋を開業し、最初の数年は実入りが良かったものの、ブックオフが札幌に進出してからは、以前ほど振るわなくなり、ネット販売、ホームページ開設、CD・DVDの取り扱い、文庫本の充実など、それなりに手は打ったものの、紙の本の衰退には抗し難く廃業。現在はわずかな年金とアルバイトの賃金でやり繰りしている・・・」というストーリーも成り立つ。

後者のストーリーよりも、前者のストーリーのように思う方が気分がいいことは確かです。しかし、どちらもストーリー、すなわち虚妄であることでは同等です。このように、人間は勝手な思考を勝手につなぎ合わせて、物語を作ります。このことは、自身の思考観察からも発見できますが、他人が噂話をしているのを耳にしたりすると、如実にわかるのではないでしょうか。そこには、話者のかなりの脚色が入り込んでいます。人は自分が思いたいように、物語を作る傾向が大きいのです。

無我という仏教の主張を言い換えれば、「我という感覚は無常と同じく変化していく。変化していくものが確かな存在と言えるだろうか。いや、言えない。だから、我はない。無我が真実である。あなたが自分だと思っているそのイメージは虚妄である。世間一般では自分が存在するという言説が常識となっており、それを基本に社会が設計されている。あなたがそれを信じるのも無理はない。しかし、それは世間の風潮、または信仰でしかない。仏教は信仰ではない。仏教が教えるのは、確認可能な真実なのだ」

 

「Yuika ご機嫌俱楽部」のゆいかさん

見性体験、一瞥(いちべつ)体験と呼ばれている体験は、どうやら「自分(個我)がいなくなる」体験らしいですね。Youtubeで非二元の教え、楽になる生き方を発信していらっしゃる「Yuika ご機嫌俱楽部」のゆいかさんは、電車の中で一瞥体験された方です。それがどんな感じなのか、ゆいかさんに言わせると「自分がいなくなり、この世が超気楽なものに感じられ、至福の感覚を味わった」そうです。

電車の中でスマホを見ながら、誰かの「一瞥体験のやり方」みたいな記事を読んで、素直にやってみたらできちゃった、ということだったらしい。うらやましいですね。その後、「一瞥体験をもう一度・・・」と思い、かえって苦しいことになり、スピリチャルの教えから一旦離れ、数年後個人的な困難を体験をし、その後あるとき、さらに深い理解が起こったそうです。

無常のときにも申しましたが、無我においても同じことで、説明するところまでは割と誰でもいける。でも、それを本当に実感するには時間がかかるのかもしれないし、ひょっとしたら選ばれた人にしか不可能なことなのかもしれません。また、体験への道のりは人それぞれで、ゆいかさんのマネをしてもおそらくダメだということは、みなさんもおわかりでしょう。

こっちだよ、と指さすことはできますが、それに至る道は人それぞれ、自分で見つけるか、あるいは何もしないか・・・方程式が作れない世界のようです。それが、10数年、瞑想修行に取り組んできた私の印象です。

もうひとつ、無我を説明する切り口があるのですが、長くなったので次回にします。

 

今回はこの辺で。

 

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