【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆22
こんにちは!
今回は、難解「心心不異」の解読を試みます。
①読み下し文
道流(どうる)、諸方に説く、道の修すべき有り、法の証すべき有りと。你(なんじ)は何の法をか証し、何の道をか修せんと説く。你が今の用処(ゆうじょ)、什麼物(なにもの)をか欠少(かんしょう)し、何の処をか修補(しゅうほ)せん。
後生の小阿師会(しょうあしえ)せずして、便即(すなわ)ち這般(しゃはん)の野狐(やこ)の精魅(せいみ)を信じて、他(かれ)が事を説いて他の人を繋縛(けいばく)し、理行相応(りぎょうそうおう)し、三業(さんごう)を護惜(ごしゃく)して、始めて成仏するを得、と言道(いう)ことを許す。此(かく)の如く説く者、春の細雨の如し。
古人云く、路に達道の人に逢わば、第一に道に向うこと莫(なか)れ、と。所以(ゆえ)に言う、若し人道(ひとみち)を修すれば道行われず、万般(ばんぱん)の邪境(じゃきょう)は頭(こうべ)を競って生ず。智剣出で来たって一物無し、明頭(みょうとう)未だ顕(あら)われざるに暗頭明らかなり、と。
所以に古人云く、平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)、と。
大徳(だいとく)、什麼物(なにもの)をか覓む。現今目前聴法の無依の道人(どうにん)は、歴歴地(れきれきじ)に分明にして、未だ曾(か)つて欠少(けっしょう)せず。
你若し祖仏と別ならざらんと欲得(ほっ)すれば、但(た)だ是(かく)の如く見て、疑誤(ぎご)することを用いざれ。你の心心不異(しんじんふい)なる、之(これ)を活祖と名づく。心若し異有らば、則ち性相(しょうそう)別なり。心不異なるが故(ゆえ)に、即ち性と相と別ならず。
②私訳
諸君、世間一般では「修行すべき道があり、悟るべき法がある」と言う。しかし、どんな法を悟り、どんな道を修行するというのか。諸君のはたらきにどこか欠けていたり、直さなくてはいけないところがあるか。
若い修行僧はそこがわからず、世間の野狐僧の言うことを信じる。彼らは説教で修行僧を束縛する。「教義と修行は相応じる。身・口・意の三業を慎んで初めて成仏できる」などと言う。このように説く連中が春の雨のように多い。
古人は「道で修行者に逢ったら、絶対に仏道の話をしてはならない」と言っている。さらに、「もし、人が仏道を修すれば仏道は現れない。かえって様々な異端が競って現れる。智慧の剣が現れたら、そこには物は一切ない(あるのは識のみ)。明(個別性)は未だ明確ではなく、暗(真我)だけが明確にある」と。それゆえ「平常心こそ道だ」と言ったのだ。
諸君は一体何を求めているのか。只今即今、目前で法を聴く無依の道人(真我)は、あまりにも明らかで、未だ傷ついたことさえない。
諸君が祖仏と同じでありたいなら、ただ次のように正しく見て、疑ってはならない。未顕現の心(仏性)と顕現した心(現象)とは異ならぬ。それを活きた祖師という。もし異なるなら、仏性(性)と現象(相)は別モノということになる。未顕現の心と顕現した心は同じものなので、仏性(性)と現象(相)は同じものなのだ。
現場検証及び解説
前半の文章は修行法の批判です。また、仏教の教義そのものを批判しています。これは、一見すると、修行そのものを否定しているようにも聞こえます。「修行して悟る」という素朴な思いを打ち砕くような言説です。「では、どうすればいいのですか?」と立往生してしまいますね。
臨済先生の言いたいことはわかります。禅が目指す(この言葉も適当ではありませんが)のは無時空間の即今です。そこには「因果」や「関係」はありません。ですから、「修行して悟る」という因果は成り立たないし、間違った修行法だ、ということです。
しかしながら、人間はわかりやすさを好みます。「修行して悟る」というコンセプトのもと、人寄せして、勢力を誇った宗教団体があったとしても不思議ではないありません。私は専門家ではありませんので、ハッキリしたことは言えませんが、あるいは北宋禅がそのような団体だったのかもしれません。
それに対して臨済先生が標榜される南宗禅は、一切の方法を否定する宗派です。仏道をマニュアル化しないのです。「道は自分で切り開け」ということです。
私自身の拙い経験から鑑みるに、この意見は正しいように思います。仏道に関する限り「みんなが通れる広い道」はないように思います。「たったひとつの自分の道」を見つけるしかありません。では、指導者はどうやって指導しているのか、という問題があります。
これも私の意見ですが、「指導者は自分の成功体験からものを言っている」だけだと思います。それも事後的に「要素をピックアップして述べて」います。覚醒というのは、本当はもっとたくさんの要素が、複雑に絡み合って起ることであるはずです。
ですから、究極的には、指導者は修行者を励ますことしかできない、ように思います。励まし、熟考させ、自分の修行を追求させる、のです。そういった意味では、臨済先生の法話は、修行者への檄(げき)に満ちています。願わくば、当時の修行生活と臨済先生の法話をセットで見てみたいのです。そうすると、もっと禅が深くわかるような予感があります。
また、もうひとつ付け加えると、先ほど「みんなで通れる広い道」はないと言いました。しかし、検討の余地はありますが、お釈迦さまの提唱された「四聖諦、三学、八正道」だけは、かなりの精度で「みんなが通れる道」なのではないかと思っています。ただ、これを完璧にやるのはなかなか難しいのです。そういう意味では、この道でさえ入口は、狭き門なのかもしれません。
「明(個別性)は未だ明確ではなく、暗(真我)だけが明確にある」
古人の言葉として、上記の文章が紹介されています。ちょっと見、矛盾したことを言っているように読めます。中国文化人はこのような表現方法を用いますので、注意しないといけません。同じ文章の中で、語句の意味が異なるのです。明が問題です。読み下し文では、こうです。
「明頭(みょうとう)未だ顕(あら)われざるに暗頭明らかなり」
直訳すると、「明らかなものが未だ顕れないのに、暗いものが明らかにある」。
矛盾していますが、諧謔(かいぎゃく)的な表現をとっているいるようなのです。そこを汲んで理解しないと、「シャレのわからん奴」になってしまいます。しかし、非常に高度なことを、ここで言おうとしています。
真我というのは、「独り」と表現されるように「一なるもの」です。その真我という生命エネルギーのようなもので、私たちは生きています。生きとし生けるものすべてが、この生命エネルギーのようなもので生きています。そういう意味で、私たちはひとつです。
古人は、この生命エネルギーのようなものを「暗」と表現しています。なぜなら、あまりにも身近すぎて、普段はそれに気がつかないからです。「暗」と表現していますが、ありありとあるということです。「歴歴地に分明」と後の文章に出てきますが、同じことを指しています。「暗」イコール「歴歴地に分明」です。
この生命エネルギーのようなものが、肉体精神機構を通じて展開していく過程で、現象世界は顕れてきます。現象世界の特徴は「変化」と「個別性」あるいは「多様性」です。私たちにお馴染みの世界、普段ありありとあるように感じられるもの、です。それを古人は「明」と表現しました。
しかし、この「明」が顕れてしまうと、私たちはかえって「暗」(=真我・生命エネルギーのようなもの)がわからなくなる。逆に「明」(個別性・現象世界)が顕れてないうちの方が、「暗」はわかりやすい、というのが上記の文章の意味です。
白い紙の上の文字を連想してみてください。私たちは反射的に文字を読んでしまいます。しかし、同時に紙も見ています。紙を見ていますが、紙を意識しません。意識するのは文字の方です。紙が「暗」、文字が「明」です。文字がすべて消えてしまうと、紙が意識される・・・。これは比喩ですが、そんなイメージです。
ややこしいですね(笑)。
続く文章で、「平常心こそ道だ」とあります。様々な修行、教義を否定し、残る教えはたったこれだけです。言い換えると「当たり前にやれ」「作為を凝らすな」というようなことでしょうか。かえって難しいかもしれません。人間は「このようにやりなさい。そうすればこうなります」という明確な指示の方を好みます。
「当たり前にやれ」と言われると、当惑するのです。そして、注意したいのは、「この言説は初心者に言ってはいけない」ということです。平常心を「何もしないこと」と解してしまうからです。平常心は、少なくとも数年は修行をみっちりやり込んだ者に言うべき言葉です。
臨済先生は実際に、そのような学僧を相手に話しています。通常人間は、何かをやろうとする際、頑張ってやってしまいます。「数年間、頑張って修行したけど、どうもうまくいかない、どうしてだろう?」という者に対して、平常心という言葉は投げかけられています。
一度も頑張って修行したことのない人、修行に行き詰ったことのない人は、まず、頑張って修行して行き詰るべきだ、と私は思います。そこから「平常心って何だろう?」という疑問が生まれ、探究が始まります。それ以前だと平常心は、たいてい誤解されて終わりです。
你の心心不異(しんじんふい)なる、之(これ)を活祖と名づく。心若し異有らば、則ち性相(しょうそう)別なり。心不異なるが故(ゆえ)に、即ち性と相と別ならず。
この文章も、「心」という言葉を二重の意味で使用していますので、注意が必要です。
普通に読めば「心と心は違いがない」って・・・「そんなの当たり前だろう! 一体何が言いたいんだ! ふざけるのもいい加減にしろ! 俺は本気なんだぞ!」とまあ、こんな具合に、私は腹を立てていました。
上記の文章で、「暗」と「明」の話をしました。仮に「暗」と「明」としましたが、これらは同じものです。真我(暗)が肉体精神機構を通じて展開していく過程で、まず個我が顕(あらわ)れ、個我の先に世界が顕れていきます。個我と世界の特徴は個別性、多様性です。これを古人は「明」としました。「明」は時空間に顕れるものです。展開していくと、細分化されていきます。時間(過去と未来)をウロウロします。一連のものは、言葉を付加すると別のモノのようになりますが、別モノではないというのが「心心不異」の意味です。
古人はこれを「活祖」と名付けました。「活祖」とは祖師のことでもあり、私たちのことでもあります。何の違いもありません。
「性」というのは仏性(真我)のことです。未だ顕れる前の生命エネルギーのようなもの、です。この生命エネルギーのようなもの(仏性)が展開していって、現象になります。現象は姿を変えた仏性(真我)です。現象のことを臨済先生は「相」と表現します。
顕れる前の仏性(真我)を「性」と言い、顕れた後の仏性(真我)を「相」と言っています。「性」と「相」は同じもの、仏性と現象は同じもの、なのです。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。