【臨済録】やさしい現代語訳・解説 勘弁10
こんにちは!
今回は、徳山の棒がテーマです。
①読み下し文
師、第二代徳山(とくさん)の垂示(すいじ)して、道(い)い得るも也(ま)た三十棒、道い得ざるも也た三十棒と云うを聞いて、師、楽普(らくふ)をして去(ゆ)いて、道い得るに什麼(なん)としてか也た三十棒なると問うて、伊(かれ)が汝を打つを待って、棒を接住(せつじゅう)し、送一送(そういっそう)して、他(かれ)が作麼生(そもさん)なるかを看(み)しむ。普、彼(かしこ)に到って、教えの如くに問う。徳山便ち打つ。普、接住して送一送す。徳山便ち方丈に帰る。普回(かえ)って師に挙似(こじ)す。師云く、我れ従来這(こ)の漢を疑著(ぎじゃく)す。是の如くなりと雖然(いえど)も、汝還(は)た徳山を見るや。普擬議(ぎぎ)す。師便ち打つ。
②私訳
臨済は第二代徳山和尚が「言い得ても三十棒(食らわす)、言い得ざるもまた三十棒(食らわす)」と訓示していると聞いた。
臨済は楽譜に次のように言い含め、徳山和尚の元に行かせた。
「言い得ているのに、なぜまた三十棒なのか」と問い、和尚が打ってきたら、棒をつかんで押し戻し、和尚がどうするか見てこい。
楽譜は徳山和尚の元に行き、言われたとおりに問うた。
徳山和尚は打ってきた。楽譜は棒をつかんで押し戻した。徳山和尚は自分の部屋に帰っていった。
楽譜は帰って臨済に報告した。臨済は言った。
「ワシは前から徳山を(悟りを開いているのではないかと)疑っていたのだ。ところでお前は徳山を見抜いたのか」
楽譜は思案した。
臨済は打った。
現場検証及び解説
各々の言行が奇妙に感じられるので、そこに何か深い意味が隠されているのではないかという妄想が働きますが、即今をキーワードに見ていけば単純な構図が見えてきます。
「徳山の棒」と「臨済の喝」は、禅の端的さを表す有名な言葉です。どちらも厳しさを表すと説明されることが多いようですが、どちらも即今を示す方便のように思います。徳山は棒で打つことによって、即今を知らしめようとしたのです。もちろんバツ棒もあったでしょう。しかし、ほめ棒、即今棒もあったと思われます。決して単なる暴力ではありません。
「言い得ても三十棒、言い得なくとも三十棒」というのは、言葉では表せない即今=仏性=本来の面目を、あえてなんとか表現してみよ、という示唆です。
「言い得ているのに、なぜまた三十棒なのか」
これは、「言い得ている」ということ自体が、即今を外れるのでダメだということ。しゃべればしゃべるほど、観念に落ち込んでいき、即今からは外れていってしまいます。
徳山は即今を示す棒を繰り出しますが、楽譜はそれを受けようとせず、徳山は諦めて部屋に下がります。二人の禅僧のやり取りに、どこか迫力を感じないのは、楽譜が臨済にやらされているから、のように感じます。
楽譜は戻って臨済に事の次第を報告します。臨済は徳山の態度に、衝撃を受けたようですが、どうしてなのかよくわかりません。楽譜もよくわからなかった様子です。臨済に問われ、何と答えるか思念を起こし、そのせいで臨済にバツ棒を食らいます。
「臨済録」のなかで「擬議」した者はほとんどバツ棒を食らっているはずです。とにかく思念を起こしたらダメなのです。
私も「徳山の態度」の態度がイマイチぴんと来なかったので、臨済和尚にバツ棒を食らったように感じます。しかし、あえて言いたい、「どうして和尚はご自身で問われないのですか!」と。
また、バツ棒を食らうかもしれません(笑)。
今回はこの辺で。近々にお会いしましょう。