【臨済録】やさしい現代語訳・解説 行録3
こんにちは!
今回は、臨済vs.黄檗。
①読み下し文
師、大愚を辞して、黄檗に却回(きゅうい)す。
黄檗来たるを見て便(すなわ)ち問う、這(こ)の漢来来去去して、什麼(なん)の了期(りょうご)か有らん。師云く、祗(た)だ老婆心切なるが為なり。便ち人事(じんじ)し了(おわ)って侍立(じりつ)す。黄檗問う、什麼(いずれ)の処にか去り来る。師云く、昨慈旨(じし)を奉じて、大愚に参じ去り来らしむ。黄檗云く、大愚何の言句か有りし。師遂に前話(ぜんな)を挙(こ)す。
黄檗云く、作麼生か這(こ)の漢を得来たって、痛く一頓(いっとん)を与えんと待(ほっ)す。師云く、什麼(なん)の待すとか説き来たらん、即今便ち喫せよ、といって、後(しりえ)に随って便ち掌(しょう)す。
黄檗云く、這の風顚漢(ふうてんかん)、却(かえ)って這裏(しゃり)に来たって虎鬚(こしゅ)を捋(ひ)く。
師便ち喝(かっ)す。
黄檗云く、侍者、這の風顚漢をを引いて参堂し去らしめよ。
後に、潙山(いさん)、此の話を挙して、仰山(ぎょうざん)に問う、臨済当時(そのかみ)、大愚の力を得るか、黄檗の力を得るか。仰山云く、但(た)だ虎頭に騎(の)るのみに非ず、亦(ま)た解(よ)く虎尾を把(と)る。
②私訳
臨済は大愚を辞して、黄檗のもとに帰った。
黄檗は臨済が来るのを見て言った。
「この男は行ったり来たり・・・何かわかったことはあるのか」
臨済は「これも懇切丁寧なご指導のたまものです」と言って挨拶し、黄檗のそばにいった。
黄檗は問うた。「どこに行って来たのか」
臨済「先日ご指示いただいたように、大愚に参じてまいりました」
黄檗「大愚は何か言ったか」
そこで臨済はあらましを伝えた。
黄檗「(話のなかの)その男(臨済)がやって来たら、どうにかして痛棒を加えたいものじゃ」
臨済「やって来たら、などと、なぜ言うか! 今すぐ食らえ!」と言って、平手打ちを食らわせた。
黄檗「非常識な奴め! ワシの虎の髭を引っ張りおったな!」
臨済は喝した。
黄檗「侍者よ、この非常識な男を参堂に連れていけ!」
後に潙山(771~853)がこの話を持ち出し、仰山(804~890)に問うた。
「臨済は大愚によって悟ったのだろうか、それとも黄檗によって悟ったのだろうか」
仰山は言った。
「虎の頭にまたがっただけでなく、虎の尾をも抑え込むようなはたらきだ」
現場検証及び解説
前回お伝えしたように、弟子が覚醒した後、師弟関係は変わります。師弟という上下の関係ではなく、横並びの兄弟の関係になります。今回のテキストは、そのあたりの消息を実にダイナミックに表しています。解説を試みます。
黄檗の元に帰ってきた臨済は、最初、自身の覚醒を露(あら)わにはしません。出発以前の師弟関係を保ったまま、黄檗に礼を尽くして接します。私の訳ではうまく表現できていませんが、読み下し文を当たってもらうと、それが感じられると思います。
「便ち人事(じんじ)し了(おわ)って侍立(じりつ)す」は、師弟の態度を保っています。しかし、注意深く見ると「大愚」と呼び捨てにしています。
大愚和尚と臨済は師弟関係ではありませんし、「黄檗の元に帰れ、ワシの弟子にするわけにいかん」とやられたので、敬意を表する必要がないとも言えますが、それだけではないと思います。臨済には、大愚和尚とは対等に渡り合った、兄弟なのだという気持ちがあったと思います。
臨済は大愚との経緯を黄檗に話します。この後の黄檗の反応が大変興味深い。
「作麼生か這(こ)の漢を得来たって、痛く一頓(いっとん)を与えんと待(ほっ)す」と言っています。この漢、つまり、この男という意味ですが、これは大愚のことではありません。臨済のことです。
岩波文庫の入矢先生の訳を読むと「なんとかあいつに会って、思いきり食らわせてやりたいものだ」とあり、私はてっきり大愚のことだと誤解していました。
しかし、これは話の流れを考慮すると、どう考えても臨済のことです。なぜ、黄檗は「その男がやって来たら、どうにかして痛棒を加えたいものじゃ」というような奇妙な言い方をしたのか。その男とは目前の臨済なのだから、すぐさま「お前、大愚和尚にそんな失礼なことをしたのか、馬鹿者め!」とどやしつければいいのです。
黄檗和尚には出発前の臨済のイメージが強く残っていました。三度参じ、三度打たれ、黙って引き下がった臨済のイメージです。真面目な男です。
ところが、戻ってきた臨済が話す、臨済のイメージは全く違ったものでした。大愚の脇腹を三度も殴った男、失礼な男です。
出発前の臨済のイメージと戻って来た臨済が、黄檗の中で、すぐには結び付かなかった。それほど臨済の変容ぶりは急激なものだったのでしょう。
また、禅僧はその場、その場に成り切る、つまり集中力がハンパではありません。話中のその男に真剣に腹を立て、痛棒を食らわせたい!の思いが、黄檗にほとばしったと思われます。
黄檗はむしろ、話中の失礼な男に意識が乗ってしまっています。「現場」より「観念」に意識があります。また、「やって来たら」というのは仮定、未来に意識がずれている。つまり即今から逸れている。そこを新生臨済が激しく突っ込みます。
「やって来たら、などと、なぜ言うか! 今すぐ食らえ!」
これには黄檗も面を食らったでしょうし、さすがに臨済の変容に気づいたでしょう。激しいやり取りをしますが、内心は大喜びだったはず。何しろ兄弟が一人増えたのですから。
しかし、黄檗和尚はやや後手に回っている印象があります。師弟関係らしきスタイルを守ろうとしているようにも感じられます。
風顚漢というのは、規格外とか常軌を逸したとかいう意味です。最初は「気違い」と訳していましたが、あまりいい言葉ではありませんし、ここでの正確な意味でもありません。
師弟関係という世俗の関係、つまり常識の世界をブレイクスルーし、兄弟の関係(世俗諦に対し勝義諦といえる)に踊り出たという意味で、「非常識」と訳しました。
臨済の記念すべき「喝」が記録されています。喝第一号です。激しく端的ではありますが、どちらかというと後手に回り、観念的に発語する黄檗に向かって放たれる「喝」。
「即今でありなさい」という喝、即今喝、教化喝。あるいは「観念に流れているぞ」というバツ喝かもしれません。黄檗は元師匠ですが、今や兄弟ですから、、遠慮はいりません。
潙山と仰山の会話が最後にあります。カッコ内に生年を記しましたが、潙山が30数歳年上で、親子のような年の差です。なぜか年上の潙山が質問し、年下の仰山が答えるというスタイルがとられます。仰山は予知能力があったようです。今後もこの行録には、この二人の会話が付け足されることがあります。
大愚と黄檗どちらが臨済の覚醒の手助けとなったのか、という潙山の質問に対して、仰山はそれには応えずに、臨済の活躍ぶりを讃えています。二匹(と思われる)の虎は大愚と黄檗、それにまたがったり、抑え込んだりするのは臨済と思われます。
では、次回もよろしくお願いします。