瞑想知恵袋 その40 続・近況報告 生きがいについて

こんにちは!
前回は胃の調子が悪くなったお話をしました。おかげさまで、思っていたよりも早く、良くなってきました。ありがたいことです。一時期食欲不振で体重が57キロまで落ち、慌てて医者に駆け込んだのですが、今は元の62キロまで回復し、食欲も旺盛になってきたので、今度はダイエット志向になるという始末です(笑)。
薬も良く効いたのですが、原因がおぼろげにわかり、それに対処したことで良くなりました。手っ取り早く言えば、「用事の抱え込み」が原因でした。頭ではできると思っていたことが、身体は嫌がっていたのです。それが食欲不振、身体の痛みとなって現れたのでした。思考は欲張りで、身体はいたって謙虚で、正直であることを知りました。
瞑想修行的に言うと、思考の企みを知り、上手にそれを捨てていく、ということを今回体験しました。「上手に」というのは、「意図して」ということではなく、「自然に」ということです。無理に捨てようとすると、かえって思考は抵抗するのです。今回の場合も、食欲不振に陥って慌てたり、胃カメラを飲んだり、友人との約束を反故にしたり、とすったもんだの末に、やっとこさ捨てられた思考でした。
思考はこの男(私のエゴ)を「もっと出来る奴」だと思っていたようです。それがそうではなかった。自分の不出来を認めるのは残念で、苦しいことですが、むしろ、それゆえにちょっとした試練が必要なのかもしれません。このような事態は自分で計画して出来ることではありません。自分から「食欲不振」にはなれませんし、なろうともしないでしょう。
一連の流れを虚心坦懐に思い返してみると、「他力がはたらいて私に修行させてくれた」と感じますし、あるいは「やっぱり自分の中にグル(霊的指導者)がいる」と感じます。一般の方々は「たまたまそうなっただけ」というふううにかたづけるでしょうが、自分が感じた事は信じた方が良いのです。一般論なんて、ただの烏合の衆的な無責任なもの、勝手な思考の寄せ集めにすぎません。みなさん、一般常識的人間であるよりも、実存的(実現された個体的存在)な独自な存在でありましょう。
ところで、最近は「生きがい」について考えています。尊敬するスマナサーラ長老(以下、長老と略すこともある)曰く「人生に意味はありません」ということですが、古本屋の仕事を失い、長年通った坐禅会を離れ、瞑想修行にも迷いを感じている私にとっては、「生きがい」「生きる意味」を持っていた方が、「生きやすい」「生きてて張り合いがある」と思うのです。
「人生に意味はない」という言葉に、ある時期私は広々とした開放感を感じたことはあります。それは「みんな、同じなんだ!」という安堵感、「生き物の平等」ともいえる感覚でした。その後その感覚を見失った。あるいは、薄れていったように感じます。
その考えに対して今「否」を言うつもりはありません。まだ、思索の途中ですので(そんな御大層なものでもない・笑)、うまく表現できないのですが、生きがい(仮)でもいいから欲しいな、と。元気を出すために・・・。
長老も短い時間の目的なら持って良い、と言っておられた記憶があります。また、スマナサーラ長老、アチャン・チャーなど、テーラワーダ仏教の共通点は「生きることに意味はない。あるとすれば仏教を修することだ」というものです。
私の言葉で言い換えれば「人間の霊的な成長につながる努力は意味がある」と思うのです。長老の言葉で「人間自らの意志や努力を否定する思考は、仏教では邪見とします」というものもありました。仏教にも意味とは言えなくても、ある方向を指差すことはしているわけです。
仏教の見解は次のようなものかもしれません。
意味は案外微妙なものです。意味は諸刃の剣で、あるときは人間を元気づけ、人生に張り合いを持たせるものですが、それに執着しすぎると、それを失うとき、今度は苦しむことになります。なぜなら、この世は無常であり、あなたにとって意味あるものも、いつかは手放さざるを得ないことになる。ゆえに無執着であれ、と教えるのではないか。「人生に意味なし」と言うのではないか。
私がこんなことを言うのも、日本禅を離れ、キリスト教、ユダヤ教関係者の本を読んだことが、理由のひとつになっています。マザーテレサ、若松英輔、渡辺和子、V・E・フランクル、神谷美恵子、聖書ももちろん読みました。これらの方々をすべて宗教者と呼んで差し障りがないのか、私には自信がありませんが、著書にユダヤ・キリスト教のバックボーンを感じることは確かです。これらの宗教は仏教と違い、「人生には意味がある」と主張します。どんなに苦しい状況下にあり、意味がないように思われるときでも、意味を見出し生き抜くことを訴えます。自殺は御法度。自殺すると天国にいけないらしいし、復活も有り得ない。
そこが仏教との違いのように思う。仏教は自殺は禁じられていない。だだし、輪廻転生があるので、次の生に悪い影響を及ぼすことがあるそうだ。それは、世界観の違いなので、深入りすると、話が脱線してしまいそうなのでやめます(笑)。
そう、私は「人生の意味」をめぐって自分なりの答えを見つけたくて、読書していただけなのです。
仏教とキリスト教など、全く違うかと思われる宗教で(長老は仏教は宗教ではない、と言われていますが)、よおーく読んでみると、重なる部分があることに気づく。
たとえば、フランクルの文章でこのようなものがあった。
チェスのチャンピオンに次のように質問するのは無意味である、ということ。
「チェスにおいて、一番いい手は何でしょうか?」これを「人生」に入れ替えるとこうなる。
「人生において、最高の生き方は何でしょうか?」これに応えようとすると、すこぶる通俗的な答えになってしまうのは、みなさんおわかりかと思います。上記の文章は一般論です。
局面もわからず、相手もわからない場面では、チャンピオンも応えようがない。応えるとすれば、「チェスのどんな局面で、どのような相手と指しているか」によるのではないでしょうか。
人生もそれと同じです。最高の生き方は一般化できません。大金持ちでも不満な人はいるし、貧乏でも充実感をもって生きている人もいます。その充実感というものも、フランクルに言わせれば「今ここ」に関するものです。未来永劫続いていく普遍的な「人生に意味」など存在しません。そういう意味では、「人生に(継続的な、永久不滅の)意味などない」と言い切れるかもしれません。
フランクルは冗談交じりに、自身の講演会で、始まるなり、こう質問した若者がいた、と紹介しています。
「フランクルさん、誠に申し訳ないのですが、私は今からやんどころなき理由があって、すぐに行かなければなりません。そこで質問です。人生の意味をひと言でいうと、どういうことになりますか?」
おわかりかと思いますが、人生の意味とは、そういうかたちでは伝えられない。いえ、むしろ他人から伝えられるものではない。苦悩の末、自ら見出さなければならないものだ、ということです。しかも、それは人それぞれです。子育てが生きがいになる方もいれば、子育てが苦痛になる方もいるわけです。決して一般論ではかたずけられない問題です。
また、生きがいは「今ここ」で感じるもので、継続していくものではありません。時代とともに手放さなければならないものでもあります。たとえば、思春期になった子どもに、小さな子と同じように世話を焼くことは、あまり良い結果をもたらさないでしょう。嫌がられるか、自立を遅らせてしまうか、のどちらかです。
だから長老は「生きがいなど持ちなさんな」とおっしゃるのです。状況が変われば、古い生きがいにしがみつかずに、「じゃあ今度はこうしましょう」と新しいものに乗り換えていく。そこに仮の生きがいを見出していく、というのが仏教的な生き方なのです。
生きがいは「今ここ」にあり、という考えは禅仏教に通じます。その意味で、重なるな、と
そういうわけで、大分長くなってしまいました。おかげさまで、自分の考えが少しまとまったように感じます。
今私は迷いつつも、修行の道程を続けようと、模索しています。必要なのは待つことなのかもしれませんし、何か未知の試練がまだあるのかもしれません。それはわかりません。辛い時、「このことにも意味があるんだ!」と強く実感することは、生きていくうえで大変な力に成り得るものです。それには、バックボーンに人智を超えた神の存在を確信する必要があるのかもしれません。
私にはまだその力はありません。また、神などいない、と言えるほど強くもありません。先人に教えを請いつつ、修練しつつ、何とか自分の答えを見つけたいと思っています。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
追伸 このブログは今年の5月いっぱいをもって終了いたします。他の文章が閲覧できるのもその時期までです。
ご愛顧の皆様(そのような奇特な方がおられたのなら)に、これまでのお礼と、この度の突然の終了を深くお詫び申し上げます。