瞑想知恵袋 その38 精神が肉体に宿るとき

 

 

こんにちは!

 

これからお話することは、一般常識からすると大変おかしな話に聞こえると思います。ましてや、言葉足らずの私が話すことです。おそらく大半の方が「頭の弱いオジサンが何か一生懸命に語っている」という印象しか残らないかもしれません。しかし、思い立ったことです。伝わるかどうかはともかく、チャレンジしてみようと思います。しばらくの間、お付き合いくださいませ。

 

生命の誕生に関する誤解

生命の誕生が科学的に語られるとき、それはまず地球上に物質的な条件がそろった、という話から始まります。太陽から程よい距離にあり、水が豊富にあり生命の誕生の条件が整った。海中の元素がアミノ酸や糖となり、タンパク質や核酸ができた、と。

これは科学的見解であり、私もそれを一般常識として学校で教えられ、それを信じてきました。しかし、仏教やヒンズー教、非二元の教えを学ぶうちに、どうやらその「物質から生命が生まれた」という前提が間違っている、というふうに考えるようになりました。

私は科学を全面的に否定するわけではありません。よく知らないまでも、科学的なアプローチは精密でフェアだと感じています。しかし、ひとつ不思議なのは、「物質から生命が生まれた」のなら、これだけ科学が進歩したにもかかわらず、なぜ物質から生命が作れないのでしょうか。生命をある程度操作することはできても、ゼロから創り出すことはできない。また「生命とは何か?」を議論すると、最後には「神秘である」という感慨にいたるのはなぜなのでしょうか。

 

こう考えれば、つじつまが合う

ヒンズー教や非二元の教え、そして仏教が暗に指示しているのは、「精神は永遠不滅で、その精神が物質を通じて顕現している」というものです。科学的な考えに準じて「物質から生命が生まれた」とすると、「肉体が滅びると共に精神も滅びる」ことになる。そう思って現代人は生きていますし、そのせいで死を何よりも恐れます。

 

般若心経の「不生不滅」

般若心経は日本で超人気のお経です。唱える機会も多いし、写経と言えば般若心経です。また、このお経を現代語訳する文化人も多い。玄侑宗久(作家・僧侶)、新井満(作詞作曲家)、柳澤桂子(生命科学者)、伊藤比呂美(詩人)。ネットを開けば、葬儀屋さんによる現代語訳もあります。みうらじゅんの「アウトドア般若心経」という一風変わった本もありました。

で、「不生不滅」の訳ですが、物質的な観点から訳されているものが多い気がします。「肉体は滅びても、原子となって宇宙を漂う」というような・・・。それもひとつの考え方かもしれません。しかし、「不生不滅」とは生き死にのことを言っているようだし、それを物質とするのは、何か違うような気がします。

出典がハッキリしないのが残念ですが、ヒンズー教の覚者が「ソレ(真我)は生まれたこともないし、死にもしないのだ」と言っていました(ニサルガダッタ・マハラジだったような気がします)。そのとき、「あ、それで、不生不滅なんだ!」と得心がいった記憶があります。

肉体は生まれ死ぬ運命にあります。しかし、それに宿る精神は「生まれもしない、死にもしない」、肉体に宿り肉体を離れる永遠不滅の存在とすると、「不生不滅」が腑に落ちます。

もうひとつ、精神をダイレクトに示した力強いメッセージをあげましょう。

 

「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人あり」

引用は「臨済録」からです。上記の文章にこう続きます。

「常に汝等諸人の面門(めんもん)より出入(しゅつにゅう)す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」

「面門より出入」するのは、息とも考えられるでしょうが、私は「あ、精神のことだ・・・」と思いました。坐禅を続けることで、仏教を受け入れる素地ができていたので、素直にそう感じたのかもしれません。また、思念を日々払うなかで、一般常識が薄れていたのかもしれません。あるいは、ヒンズー教の覚者の本など読んで、その影響が染み込んでいたせいかもしれません。

よく言われる「腑に落ちる」体験は、理屈ではなく不意に訪れるもののようです。

 

意識は肉体の中にあるのではない

最後に解剖学者であり、多くの著書を書いておられる養老孟司先生の言葉を引用します。確かYoutubeの動画(講演会)で、次のように言っておられました。

「一流のサッカー選手が、まるで頭の後ろに目が付いているような素晴らしいプレーをする。あれは意識が肉体の中だけにとどまっているなら、絶対にできないプレーです。おそらく、意識が肉体をはみ出して俯瞰(ふかん)するような状態でないと不可能です。

じゃあ、その意識とやらが、どうして今だに科学的に発見できないのか。それは我々が意識であるから。意識は意識を対象化できない、したがって発見できない、ということです」

少し違うかもしれませんが、私の記憶ではこうでした。最後の一句、「意識は意識を発見できない」という言葉は、ヒンズー教の覚者もよく使う論理です。「目は目を直接見ることはできない」とか「鏡は鏡自身を映すことはない」ちょっと内容がずれますが、「太陽は自分が輝いていることを知らない」という言説もありました。

では、覚者はどのようにソレを知ったのか、という疑問が湧いてきます。「ダイレクトにソレに成る」という特殊な方法において、らしいのです。

 

知的に知るか、直接体験するか

禅は真実をストレートに語らず、レトリックの後ろに真実を隠すようなやり方します。今にして思えば、それはそれで親切なのかもしれません。なぜなら、先に知的に知ってしまうと、それを暗記して「わかったようなつもり」になってしまう危険性があるからです。今の私にもその傾向があることを認めます。

しかし一方で、比喩ばかりで説かれると人間はストレスを感じますし、勘違いしたまま、間違った方向で修行してしまう危険もあります。その危険性を感じたからこそ、先に大雑把なアウトラインだけでも、知的にわかってしまった方が良いのでは? と私なりに考えた末、このような文章を書いているのです。お節介かもしれませんし、力不足でもありますが、お伝えしてみているわけです。

 

どうかこの文章が、みなさんの修行に役立つことを願って、この項を終わりにしたいと思います。最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。

 

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