瞑想知恵袋 その34 無常とは変化のこと

 

 

こんにちは!

 

坐禅修行時代を振り返って、仏智に気づいた経験を、ここのところお話しています。

私の場合は、画期的な見性体験、あるいは、ノンデュアリティで言うところの一瞥(いちべつ)体験はありません。小さな気づきが少しずつ起こり、仏教における智慧、仏智というものにじりじりと近づいてきました。修行に興味がある方々にわずかでも参考になれば幸いです。

 

無我に腹を立てていたあの頃

今回のテーマは無常です。無我に比べて無常は受け入れやすい言葉かもしれません。かつての禅友が「無常ならわかる、無我がどういうことかわからない・・・」とつぶやいていたのを思い出します。

私も修行を始めたばかりのときは、「無我ってなんだい! こんなにもありありとあるじゃないか!」と腹を立てていました。初心者には難解なテーマです。が、これも時間をかけて心を観察し、冷静に考えると「ああ、そういうことか」と、仏陀の言っている無我というものが比較的簡単に外観できます。

ただ、言葉上だけでなく、無我を内面化し、それをベースに生きていくことが、超難しいのです。

今回は無我には立ち入らず、無常の方を取り上げますが、無常の方にも同じ難しさがあります。そのことを念頭において、以下の文章をお読みください。

 

君はエントロピーの法則に抗し得るか

無常とは、タイトルにある通り、変化のことです。変化を知らない人はいないでしょう。刻々と変化しているのが、日々の生活、身体、考え、気分、感覚ではないでしょうか。ちょっと思い起こしてみてください。

今ここにあるパソコン机は、昨日と同じパソコン机でしょうか。違いますね。新品のときと比べると表面にたくさんの擦過線や傷、インクの汚れがあります。長い期間で見ると、明らかに劣化しています。ですから、昨日と今日を比べても、さして違わないように見えますが、それはわずかな変化を私の感知能力では、見分けられないだけのことです。実際には、今日の机は昨日の机よりも劣化しています。

物の世界はエントロピーの法則にしたがって、秩序化された状態から、無秩序へと向かいます。机は刻々と壊れ続けていくのです。これが変化の正体です。

人間の身体も同じです。エントロピーの法則がはたらいています。しかし物との違いは、生命体は秩序化する動きも同時に備えているので、壊れながら生成し、同じ身体を備えているように感じられるのです。細胞レベルの観察では、壊れつつ生成しているさまが観察されることでしょう。

生まれたての赤ん坊は生成力の方が強いので、時間とともに大きく丈夫になっていく。私のような老人は生成力よりもエントロピーの法則が優勢になってきて、1年前にできていた動きが今年はできなくなる、ということが起こってきます。

そして、いかに医療が発達しているとはいえ、故障を治しきれなくなり、最後はエントロピーの法則が生成力に勝り、身体を明け渡して、ジ・エンドとなるわけです。

 

考えの違いが人間を分かつのか?

思考や気持ちはどうでしょうか。いくら「人生をこのように生きよう!」と計画書を作ったとしても、その通りにはいきません。途中で軌道修正を余儀なくされます。それが人生というものです。

以前、若い修行者に無我の説明を試みたことがあります。

「君と私は違う身体と心をもち、違う人間がいるように見えるけれども、2人は同じ生命エネルギーのようなもの、を使って生きているんだよ。我々は同じ者。同じ者が形を変えて生きているだけなんだ」と熱っぽく語ったのでした。

今にして思えば、人前でこのような、一般常識を外れるおかしな考えを、不用意に熱弁したいたものだ、とあきれかえります。それはともかく、彼は私の言葉に、こうつぶやいたのです。

「でも、(僕とあなたでは)考えが違う・・・」

デカルト先生の「我思うゆえに我在り」という命題は、ここまで深く現代人に根差しているのです。困ったものです。じゃあ、考えていないときは我ナシってわけ?

また、「伝わらないなあ…」という嘆きとともに、彼に「考え=自分ということなら、考えが変わったら自分はどうなるの?」と問い返したい気持ちもありました。「考えは、コロコロ変わっていくけどなあ。考えを自分としてしまったら、日常生活のなかでも、困ったことにならないかしら?」

日常的に心を観察していれば、必ず思考・気分・感覚は一時的なものであり、時間とともに変化し、やがて消えていくことがわかります。これが無常ということ、変化ということです。

 

なぜ、私たちには変化がわかるのか?

これで一応、無常とは変化のことである、ということの説明を終わります。ところで、変化がわかるのはなぜでしょう。無常=変化という理解の次に訪れたのは、「なぜ、私たちには変化がわかるのか?」という疑問です。

たとえば、川と一緒に流されていたら、流れという変化はわかりません(少なくとも、正確には)。しかし、川辺に立って川を見たとき、それは明らかに流れ、つまり変化しているさまを見ることになるでしょう。

「変化がわかる」ということは、私たちの中に不動の視点があるからではないでしょうか。そして、不動の視点(言い換えれば、今ここ)こそが、真我=本来の面目=仏性のことのように思われます。

 

少しでも仏教にかなう生き方を

さて、長くなりましたので、もうひと言で終わりにします。このように、理屈では無常をわかったように、私は語っていますが、骨の髄までそれに納得しているかというと、残念ながらそこまで徹底してはいないでしょう。本当に無常がわかっていたら、死が迫っても「あ、そうですか、変化だから仕方がないねえ、みなさんお世話になりました、さようなら」と冷静に対応できるはずです。

私はまだまだ生きることに執着があるようなので、そうなったらジタバタするでしょう。言葉上で理解した無常を少しでも深く納得し、仏教にかなう生き方を、只今模索中というところです。

 

では、今回はこの辺で。

 

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