瞑想知恵袋 その32 なぜ思考を放っておけないのか

 

 

こんにちは!

さて、今回も瞑想修行の気づきについて、話を続けましょう。私自身のつたない体験ですが、他人の本から引用ではありません。修行の過程で感じたこと、考えたことを元にお話しています。たわいもないことかもしれませんが、みなさんの参考になれば幸いです。

 

思考がだんだん遠くなる

いつまで経っても思考が消えない私ですが、瞑想を続けるにしたがって、思考に巻き込まれてもすぐに気づく、巻き込まれる時間が少なくなっていったことは確かです。それと同時に思考が遠く感じられる、思考の声が遠く感じられる感覚もあったように思います。

以下は、おそらく、こういう理屈なのではないかという、私の仮説です。話半分で聞いてくださいませ。

 

身内の恥はなぜ放っておけないのか

よくあることですが、自分の身内、たとえば息子が人前で恥ずかしい行ないをしたとしたら、自分も恥ずかしくなります。よその子が同じ行ないをしていたとしても、そのような気持ちにはなりません。なぜでしょうか。

それは、自分と息子が心理的に同化しており、息子の行ないが我がことのように感じられるからではないでしょうか。そして、仮定でしかありませんが、観察と思考も同じような関係ではないかと思うのです。思考を我が子のように感じるから気になる。それを否定してみたり、コントロールしたくなる・・・。もし、思考が自分とは関係ないものだとわかっていたら、否定しないし、コントロールする気持ちも起こらないのではないでしょうか。

ただ、難しいのは、思考を自分に起因するものではないと、理解することです。なかなか、そうは思えない。やればコントロールできる、自分と関係のある何かに思えることです。

しかし、逆に考えてみましょう。自分がコントロールできないものは、自分ではないのではないでしょうか。それに、思考は様々に変化していきます。その変化を観ている者はいったい誰でしょう。そうです。そちらの不動の観察者こそ本当の私(少なくとも本当の自分に近い私)なのです。本当の私をもう少しさかのぼっていけば、悟りの境地が開けていくのではないか、私はそう考えています。

 

夫婦ゲンカの仲裁と思考

もうひとつ、たとえ話をあげてみましょう。

あなたが、ある夫婦(同僚2人でもよい)のケンカの仲裁を頼まれたとします。あなたは自宅に呼ばれ(会議室でもよい)、2人のそれぞれの言い分を横で聞いています。最初は黙って聞いていますが、しだいに口をはさみたくなります。口をはさめば、話はますます激しくなり、収拾がつかなくなるかもしれません。

そこであなたはテーブルの席を立ち、入口付近に立ち腕組みし、2人の会話を少し離れて聞くことにします。そうすると、やや客観的に2人の言い分、感情が見えてきます。

さらに、廊下に出て声が聞こえるようにドアを開けておき、2人の姿が見えない位置に移動します。床に座り込んだり、椅子があれば座ってもいいですね。台所で珈琲を入れる、あるいは自販機で缶コーヒーを買って、飲みながらの傾聴という態勢にします。

部屋では2人の話し合い、あるいは言い合いが続いています。仲裁を買って出た私は、もうすでに口をはさむ気持ちにはなれません。このまま話が終わるまで待ち、終わったら何か短い言葉で締めればお役ごめんです。

そこで、この夫婦(または同僚2人)を思考、私を観察者と入れ替えて読んでみてください。距離が近ければ、口を出したくなる、介入したくなる気持ちも大きくなって当然です。しかし距離をおけば、介入したくなる気持ちも薄れるし、思考を客観的に見られる、俯瞰(ふかん)できるのではないでしょうか。また、思考からの距離に比例して俯瞰度は高くなるような気がします。

瞑想時、思考がお出ましになるのは当たり前。そこから距離をおくようなイメージをもって、私は瞑想するようになりました。

 

雑草は根元から抜かないとダメ

一方で注意したいのは、「思考に伴う感情の癒し」の問題です。あまり距離をとりずぎ、自分とは全く関係ないものとして扱うと、「思考に伴う感情の癒し」が起こりにくくなります。そのような状態を、上の話の比喩になぞらえて言えば、私が2人の声が届かない場所まで行って煙草でも吸ってるような状態です。

そして、時間を見計らって2人の所に戻ってき、「どうだ、話はすんだか、仲良くしろよ」とありきたりの説教をたれるようなものです。それではダメなのです。思考には感情が伴い、それは自分の言い分が、誰かにしっかりと受け止められるまで、成仏しません。

雑草は根元からしっかり抜かないと、時間がたてばまた生えてきます。「思考に伴う感情」も同じです。ですから、しつこく起こってくる思考・感情は、ただ距離をおくという方法では解決しません。そこで、どうしても慈悲(愛と言っても良い)という要素が不可欠になってきます。

慈悲をもってそれを見つめるということは、痛みの感情に対峙して、目をそらさずにあたたかい視線を注いでいく、という大変困難なミッションです。

思考と観察の間に距離をとることで、思考は静かになる(あるいは、静かになったように感じる)のは事実ですが、それで思考が成仏してくれるかどうかは、また別の問題です。

今のところ、私に言えることは何もありません。修行を続けるうちに、言えそうだという気になったら、みなさんに聞いていただこうと思います。

 

では、今回はこの辺で。

 

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