瞑想知恵袋 その29【「自由への道」( アジャシャンティ著 ナチュラルスピリット)精読】⑫
こんにちは!
それでは、五つの基盤の最後「自分の人生の面倒をしっかりみる」を検討していきましょう。
そして、精読は今回でお終いにします。本書の核は、五つの基盤がキモですので、これでいいのではないかと思います。私もいささか疲れました。次回以降は、もう少し軽い話題にしてみようと思います。
さて、始めましょう。青がアジャシャンティ、黒が私の文章です。
自分自身や自分の人生における辛い面、厄介に思う面、うまくいかないところ、あるいは怖ろしい側面から目を背けるために、スピリチュアリティを無意識の内に利用することがよくあるのを今まで見てきました。リアリティに目覚めたらすべての課題は消えてなくなるだろうという望みを持っているのです。
私もよくよく考えてみると、このような望みを持って、坐禅修行を始めたことを認めます。小さな頃から「自分の精神的な弱さ」を自覚していました。小学校1年生の通信簿に思いっきり「この子は根が弱い」と書かれていました(笑)。自分でもそれを恥じていたので、なんとか克服したいという願望を、こころの底に秘めていました。
そして、恥じているため、それが外部に暴露されないように無駄な努力というか、エネルギーを使ってきたような気がします。そのような私が30代後半に禅と出会うのです。禅を通じて「精神的に強くなりたい」と頑張るのは、むしろ自然な成り行きだったと思います。
しかし、一方で自営業の古本屋経営の行き詰まりや、家族の問題を抱えており、それらの問題を禅を学ぶことによって一気に解決したい、いえ、悩み事を超越した世界をなんの根拠もなく夢想していたのかもしれません。
禅に打ち込むなかで、「あれ? これは現実逃避かな・・・」と微かに気づいたこともあります。ですが、人生の問題は私にとって手ごわく、「正面突破は無理だなあ」という思いもありました。なので、「とりあえず、禅をやって、仕事もやって・・・」と自分のやるべきことは最低限(すべてを誠実に、とは言えないまでも)やってきて、突然の悟りとやらを、ひたすら待っていたのかもしれません。で、その待っていたものは現れず、多少の気づきを得た状態で、日本禅を最近離れることになりました。
やるだけのことはやった、という思いはあるので(ほぼ15年間、毎日のように坐禅してましたから)、未練はありません。ただ、現状がわかってげっそりはしました。
修行は続けていくつもりですが、具体的な修行道場、修行仲間を一気に失って、新しい仕事も始め、今はただ呆然となすすべもなく日々を過ごしています。
自分の人生の面倒をしっかりみるということは、人生のあらゆる側面、内面的、外面的、心地よいことも不快なこともすべて快く受け入れることです。必ずしもすべてと一気に向き合う必要はありません。ただ、いかなる瞬間にもそこに現れてくるものに向き合えばよいのです。瞬間瞬間に注意を払い、誠実でいて、その瞬間にふさわしい献身をするのです。
「すべてと一気に向き合う必要はない」ほっとしました。
「不快なことを快く受け入れる」のは難しそうですね(笑)。アジャシャンティが言わんとしていることは、なんとなくわかります。不快なことが起こると、それをすぐになんらかの方法で、すぐにでも消し去ろうとする人がいます。たいていは、他人のせいにして自己正当化をはかる、というやつです。それがうまい人は「不快なことは受け入れない」のです。しかし、それでは霊性(人格の向上)は望めません。
快く受け入れることができないまでも、起こったことをできるだけニュートラルに観察するのです。それがアジャシャンティの言う「瞬間瞬間に注意を払い、誠実でいて、その瞬間にふさわしい献身をする」ということの意味だと思います。
一方で、「反省」が得意な人もいます。後からくよくよと考えるのです。これは、私が長年やってきたことです。そして、「反省」はいいことだと思っていたので、いっそうたちが悪い思考癖だったと思います。
「反省」は「瞬間への献身」ではありません。過去の記憶を現在に持ってきて、あれこれと検討するのです。「ああすれば良かった」「こうすれば良かった」と。これは思考に巻き込まれた状態で、あまりいい結論は望めません。反省するなら、具体的に悪かったところを認識し、次は「こうしよう」と決心するのです。
テーラワーダ仏教の用語で言えば、懺悔でしょうか。懺悔はいい、くよくよと反省するのは良くない、ということです。懺悔と後悔じみた反省は似て非なるものです。
だから、たとえば、不快な状況を観察するとき、気をつけたいのは、観察だけして、その場であれこれとジャッジし始めないことです。ジャッジ(判断)は思考です。思考を交えない観察こそ瞑想です。不快な状態は思考を発生させやすく、さらに思考状態に巻き込まれやすいので、そこのポイントを注意してほしいのです。
言いたいことは言い切った気がします。精読シリーズ、これで完結といたします。