瞑想知恵袋 その27【「自由への道」(アジャシャンティ著 ナチュラルスピリット)精読】⑩
こんにちは!
さっそく五つの基盤の③を検討いたしましょう。例によって、青がアジャシャンティ、黒が私です。
③自分の権限を決して放棄しない
原文では、Never abdicate your authorityです。そして、次のように続きます。
つまり、あなたが自分の人生に完全に責任を持ち、決してそれを他の誰かに明け渡して放棄しないということです。
ヒンズー教では「神への明け渡し」を奨励するようなところがありますが、アジャシャンティは徹底的に個人の自主性を重要視する姿勢が一貫しています。というのも、続く文章で次のように言います。
スピリチュアルな師の役割とは、賢明で良いスピリチュアルガイドであることであり、同時にその師が指し示している真理を具現化した存在であると理解することが極めて重要です。師に対する深い尊敬、愛慕、信仰心さえ持つことはあっても、自分の権限をすべてその師に明け渡して放棄したり、あらゆる神性をその師だけに投影しないことは重要です。
師はあくまでも、あなたのガイドに過ぎず、何事も自分で考えるべきだということでしょう。師については「言行が一致しているか、見た目に惑わされずにきちんと判断せよ」と言っているようです。
スピリチュアルな教えを渡り歩く人もいるとききます。いろんな師に会ってみることは、それはそれで有益なことかもしれません。しかし、一方で自分が居心地のいい依存先を探しているようなところも、なきにしもあらずです。そういう方々を見て、上記のような点を強調するのかもしれません。
アジャシャンティの教えは、自己責任を問う面がどの文章からも響いており、厳しく感じられるかもしれません。しかしそれだけに、「変な気休めを言う師」よりも信頼できるようにも思います。
スピリチュアルな教えの指針に対して本当にオープンになることと、大人の分別を放棄してあらゆる知恵や神性をその師に投影するといった幼稚な関係に退行することとは紙一重です。
人間はよっぽど注意していないと、何かに頼って自分を欺いてしまうようです。他人事とは感じられません。そうならないようにするためには・・・私なんぞ偉そうに言えた口ではありませんが、やはり「大人になること」かなあ。一方で仏教を修するには、子どものような純粋さも必要ですから、アジャシャンティの言うことは困難を極めるようにも感じられます。
成熟したバランスを見つける必要があります。
幼稚な関係ではなく、成熟したバランス・・・やはり大人になれと言われているような気がします。
師はいろんな教えを弟子に投げかけます。「こうしなさい、ああしなさい」あるいは「何もする必要はない」と。決して師は弟子を騙したり、間違った方向に進ませようとしているわけではない、と思います。
要は弟子が「どう受け取るか」という、もう一つの困難な問題があるのです。ここで、師の教えを自分で吟味せず教条主義的に受け取り、後輩に押し付けるようなマネをしだすと、厄介な問題になっていきます。
アジャシャンティが本書のなかで何度も言っている「教えを生かしてみる」という点は、教条主義を免れる大切な要点に思われます。
良いスピリチュアルな教えは、あなたが取り組んで、生かしていけるようなものです。
どんなものがあるでしょうか。私の場合なら・・・心の観察力を養うことは、心の暴走を防ぐために役立っているように思います。
それと、自分を含め、他人、日常生活が「いかにすれば、今よりましなものになるか」という点に、力点をおいておくと、間違った方向にはいかないのではないか、と思っています。仏教は極めて倫理的、道徳的なものだと、思うのです。
お釈迦さまは人間が幸せにならない、観念的な議論を厭われたと、何かで読みました。仏教の教えを実行していけば、あるいは身につけていけば、無理なく道徳的に良くなっていくはずだと思っています。「道徳的であろう」としてはいけません。それは失敗します。結果的にそうなっていく、ということです。
さて、何かの拍子に道を誤る、そうでなくとも、甘い考えのまま進んでいくと行き詰まる・・・そんなときにはどうすればいいのでしょうか。私自身いま切実に、それを自問自答する毎日です。アジャシャンティは次のように言います。
あなたの中の奥深いところで何よりも真理を望んで欲しているならば、どのような形で道を間違えたとしても、気がつくと何らかの形で何度も何度も真理というものに引き戻されてくるでしょう。
坐禅を始める人は、自分の人生に疑問を感じていることが多いような気がします。一度修行を離れたように見えても、何らかの形で仏道という道に戻ってきてしまうのではないか、と私は思います。坐禅をする人だけでなく、それ以外の人々も、どこか今の人間の生き方に違和感を覚えている方は増えているのではないでしょうか。仏教にはそれに答えるものが確かにあります。
みなさんはどう思われるでしょうか。
つづく。