瞑想知恵袋 その23【「自由への道」(アジャシャンティ著  ナチュラルスピリット)精読】⑥

 

 

こんにちは!

 

坐禅を本格的に始めた頃の話です。懇親会の席で、坐禅会の長老格の先輩にズバリこう尋ねました。

「悟るにはどうしたらいいでしょう」

先輩は間髪入れず、こう言い放ちました。

「老師(住職、先生の意味)の言う通りにすればいい・・・!」

数年間は可能な限りその言葉に忠実にしていました。悟りへのヒントはないかと、直接老師に質問を投げかけることも、ままありました。

時は流れ、「言う通りにせよ」と言った先輩も亡くなり、質問もしなくなってきました。何度問いかけても、はかばかしい答えが得られないからでした。教えは常に老師から私たちへ、一方通行の感がありました。

前回も申しましたが、ある程度進むと、そのあと、どう頑張っていいのか、わからなくなってしまったのです。自分が進歩しているかどうかがわからない、というのもストレスでした。生来のせっかち者ですから、仕方ありません。

 

そして、あるとき、こう悟りました。

「自分の進歩を他人に測ってもらうことは諦めよう。自分で進歩の基準になるものを見つけ、それを頼りにやっていこう」もちろん最初は、こんなに綿密な言葉で考えたのではなかったのですが、諦めと覚悟が一瞬のうちにひらめいたのは確かです。

目安になるのは、「貪瞋痴」です。これを語りだすと、少し長くなりそうなので、次回の前置きとして述べることにいたします。

 

アジャシャンティの読みを続けましょう。例によって、ブルーの文字がアジャシャンティの本文、黒文字が私のコメントです。

私はこの本の最初のページから全体に渡って、リアリティ(引用者注・仏性=真我=本来の面目)を実感する手がかりを残しているのです。

それが読み取りやすいものなら、わざわざこのようには書きませんね。ここまで読んできて、確かにわかりやすい内容ではありません。また、ある程度の瞑想体験がない方には、理解できないかもしれません。ただ、「リアリティの実感」は、たやすく実現できるものではありませんし、ひょっとすると個人差があるのかもしれません。

ですから、いくらアジャシャンティの言う通りにしたからといって、必ずしも「リアリティの実感」が起こるわけでもなさそうです。しかし、アジャシャンティにしてみたら、人類必須のこの教えを、なんとかして人に伝えたいという思いは強いのです。

また、食べ物の味を言葉では説明するのに似て(精読③で、いくら丼を例にしましたが)、本来的に非常に困難なミッションなのです。

 

今の社会では、慌ただしい人生をうまくやっていけるように、私たちは何もかもが食べやすい一口サイズで、なるべくならすぐに手に入ることを期待します。

無理もありません。「即日配達」や「時間内配達保証」が当たり前の世の中で、消費者(嫌な言葉です)は「より早く」に価値を置くようになりつつあります。「欲しいものがすぐに手に入る」がベストの世の中です。しかしながら、瞑想修行の世界はそうはいかないのです。

 

真理とはリアリティを必死で回避することや、最少の時間と最小の労力ですべてを手に入れたいと願うこととは同調しないのです。

悟りとは、地道な努力と辛い経験(個人差はありますが)を経たのちに、やっと与えられる(得られるのではなく)ものらしいのです。その過程に一般的な法則性はありません。意外に思われるかもしれませんが、覚者は自分の経験から私たちを導くために、その人その時に応じて言葉を発するので、一般法則を述べているわけではないのです。

私が読んだり聞いたりした限りでは、どんな覚者も「こうしたら必ず悟れる」という言い方はしません。

教えプラス自分の工夫がどうしても必要になってきます。それと、タイミング、運、才能・・・。悟れる人は自然に悟るし、悟れない人はどんなに頑張っても悟れない・・・。それでは、論じようがありませんので、とりあえず私は「努力すれば、誰でも悟れる」説にしたがって、持論を展開しています。

 

「自由への道」は、一種の心理療法でもなければ、人間が日常生活で直面するあらゆる難題に対処する万能薬でもないことは理解しておいてください。

すべての人間が問題を抱えているものですが、特に禅、スピリチュアルに興味をもつ人は、問題の自覚が強い方々ではないでしょうか。そして、それを何とかしたい、と思っているケースが多いように思います。

ただ、最初の段階では、悟りの状態がどんなものなのか、よくわからないでやってきますから、過分な期待をもってやってくることもよくあることです。私もそうでした。

そして、思ったような効果がないことがわかると、静かに去っていくのです。そうならないように、修行を継続させるもの、たとえば修行仲間、あるいは適度の励ましの言葉が必要なのかもしれません。

 

結果として悟りへと導くのは、より大きな幸福や喜びを感じる状態を追求することではなく、リアリティに対する渇望、および完全に本来の人生を生きていないことに対する激しい不満です。

ちょっと話がずれるようですが、キリスト教には「罪人」という言葉があります。その罪という言葉の原語は「的外れ」という意味だと、エックハルト・トール(スピリチュアルの覚者)は言います。的外れな生き方をしている人びとのことを、「罪人」とキリストは呼んだのです。

「本来の人生を生きていない」と感じることは、自分を「罪人」だと感じることです。それは大変苦しいことです。「罪人」であることから逃れようとする試みが、悟りへの道なのではないでしょうか。

私たちを罪人にしているものはなんでしょうか。エゴです。エゴを乗り越える(という言葉が適当かどうかわかりませんが)試みを絶やさないように、修行を続けていきたいと思います。

 

つづく。

 

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