瞑想知恵袋 その5 【修行の落し穴】

2024/01/30
 

 

こんにちは!

今年の10月で、本格的に修行を始めて15年になりました。

「私の世界は大きく変貌しました!」

と胸を張って発言したいところですが、変わったと言えば変わったし、そんなに変わっていないんじゃない? と言われれば、そうかもしれない、と言うしかありません。

禅だとか、スピリチュアルな世界はやはり、「見性体験」や「一瞥体験」がないと、100%「こうです!」と言えないところが、情けないところです(泣)。だけど、年季を積んだせいか、「そのやり方はやっちゃいけない」ということはわかるようになりました。

「ああ、そのやり方、ダメなんだけどなあ、この人、気づかないのかなあ。言ってあげてもいいけど、気を悪くされてもなあ・・・」

たいてい直接進言することはありません。そんなことで今日は、「絶対にやってはいけない修行法」についてお話ししてみようと思います。タイトルは大げさですが、大した話ではありませんので、気楽にお読みください。

 

今でこそ、偉そうに言っていますが、私も修行初期段階で、そのピットホール(落し穴)にはまっていました。何となくその自覚はありました。仲間から陰口を叩かれもしました。それはどういうことかと言うと「修行道場の指導者を仰ぐあまり、ついつい指導者に接近し過ぎてしまう、認められようとする」ということでした。

これは、よくあることです。組織に属していれば、必ず起こることです。しかし、一般社会ならまだしも、宗教の世界では、指導者に気に入られ組織で重用されることと、修行が進み霊性が高くなることは、全く別のことです。指導者側にそのことの理解がない場合は、余計に混乱は深まります。

仏教という難解な教えを知ろうとするのではなく、ひたすら指導者と同一化しようとする、認められようと躍起になる人がいます。そのような人物はそれについて無自覚です。だから、「仏教とは何か」という問題からずれていって、指導者の思惑・思考ばかり気にしてしまいます。こうなると、もう修行とは言えなくなってしまいます。

 

落語に「淀五郎」という話があります。私の大好きな話で、この落語からヒントを得て、上記のような視点に気づかされたました。横道に逸れるようですが、どうしてもこの話をしたいので、我慢して聞いて下さい(笑)。

落語の話はこうです。

歌舞伎の「忠臣蔵」の役者が主人公です。名もない淀五郎という歌舞伎の下っ端役者は、ひょんなことから大抜擢されます。浅野内匠頭をやるはずの役者が急に病気になり、劇団の座頭(ざがしら)、市川団蔵(この人は名優・大石内蔵助の役)が「若いのにやらしてみろ」ということで、淀五郎に白羽の矢が立ったのです。

淀五郎は名題(なだい)に出世し大喜び、各所に挨拶して回りします。ところが、本番の「腹切り」の場面で近くまで来るはずの大石内蔵助が来ない! 淀五郎の「腹の切り方が気に食わない」ので、花道の途中までしか来ないのです。「あんな下手な腹の切り方をする奴の所には行けない」というのが団蔵の理屈です。昔の人は正直というのか、大胆です。

芝居がはねて、淀五郎は団蔵の所へ行き、理由(わけ)を尋ねます。団蔵は「腹の切り方が悪い」と言う。淀五郎は「どのように切ればいいのか」と教えを請います。ところが、この団蔵、意地が悪いのか、考えがあってのことか「こちらは家来、お前はその主人だ(芝居上では)。家来が殿様に『こうお切りなさい』とは言えねえ」と教えてくれません。

重ねて尋ねると「本当に切るんだ!」。淀五郎が「本当に切れば死にますょ」と弱々しく抗弁すれば、今度は「死ななきゃだめでぇ!」と突き放します。

淀五郎は悩みます。「こんなことなら、この役を受けるんじゃなかった」と後悔します。次の日の「腹切り」の場面でも、団蔵は花道から動かない。客も異変に気づき始めます。「そうか、団蔵は腹の切り方が気に食わねぇんだ」と。

今なら「上司のいじめに合い、部下が飛び下り自殺」なんてことになりかねない事態です。昔の人は恥を重んじました。淀五郎は「こう毎日、客の前で恥をかかされたんじゃ堪らない。そうだ、明日、舞台に上がったら、内蔵助(団蔵)を本物の刀で切り殺して、自分も舞台の上で死のう」と覚悟を決めます。

淀五郎は、死ぬ前に大変お世話になった親方(役者・中村仲蔵)の所に挨拶に行きます。そこで、仲蔵に魂胆を見破られ、諭されます。そして、「どんな風にやっているのか、ここで見せてみろ」と言われ、淀五郎はやってみせます。

次に続く仲蔵の芸談が素晴らしい。「型なしでやるので、お前のは全部悪い。その悪いなかにも、見ちゃいられない仕草がある。それは、客に褒(ほめ)められようとしてやっている仕草だ。それが堪らなく下卑(げび)て見える」と看破(かんぱ)されます。「芸人は客に褒められようなんて思わなくていいんだ。良けりゃ褒めるんだ、客は。高い金払って来てるんだから」と。

ここまでくると、「淀五郎」の芸談というよりも、苦労人、志ん生自身の芸談にも思え、大変興味深く、感動すらします。

興味のある方は、ぜひ、古今亭志ん生版の「淀五郎」をお聞きください。

 

話を修行に戻します。上の「淀五郎」に習うと、見せる(認められようとする)修行と、ただする修行があります。見せる修行は媚(こ)びる修行であり、他人の評価に左右され、一時的な果実は得られるかもしれませんが、結果は侘(わび)しいものになります。

ただする修行は、説明が難しいです。ただボンヤリ修行を続けていればいい、という意味ではありません。淡々とし修行し続けるという意味です。結果を求めすぎるとうまくいきません。

かと言って、方向を見失うと、どうしていいかわからなくなります。不安になり、他に依りたくなります。人間は社会的な動物ですから、他に依る方がたやすいのです。しかし、自分の判断を手放したら、修行はそこでお終いです。霊的な発達はそこで止まります。そのかわりに、人は世俗的な出世、わかりやすい進歩に乗り換えていくのです。

それは、一般社会でも、修行の世界でも同じように私には思えます。霊性の発達とは何か、ということがわかっていなければ、修行はわかりやすい結果を外に求めて逸れていく、ように思えます。

繰り返しになりますが、仏教は自分で確かめていく行です。だから、お釈迦さまは「自灯明」と仰っしゃいました。言い換えれば「自分を頼りとせよ」ということです。仏教では、無我が真実という教えですが、最初から無我を実感するのは無理があります。

「自灯明」の自は個我の色合いが強いものですが、最初はそれでよいのです。ただ「他に依る」のは絶対にダメなのです。臨済禅師の言う「自信不及」というのは「自灯明」の逆のことです。「他に依ることなかれ」「外に法を求めるな」という禅師の言説も、同じことです。

私流に言い直せば「自分で確かめる手間を惜しむな」ということ。お釈迦さまは盲信を禁じられました。このことは、もっともっと強調してよいことです。他人の言った言葉を、無意識のうちに取り込んで、確かめもしないで盲信していると、その上に構築された教義は、お釈迦さまの教えとは似ても似つかないものになってしまいます。

「自灯明」と共に「法灯明」が説かれます。法というのは、私流に解釈すれば、生命エネルギーの法則のことだと思います。生命エネルギーは対象化できませんし、本来の私たち自身のことですから、おそらく論理で表現できるものではないでしょう。極めて混沌としたものではないかと想像します。

ソレを言語化することは不可能だが、ソレを実感し、ソレを頼りにせよ、とお釈迦さまは仰っているのだと私は理解します。

 

いろいろおしゃべりしてしまいましたが、結局はどんな偉人の言葉でも「よく吟味してから取り入れろ」ということに尽きると思います。

くれぐれも他人に媚びないように。

たった一人で修行を続けていくのは辛いことです。しかし、辛いからと言って理解の判断を、他人に委ねるようでは(実に世間にはそのような人が多いのですが)、修行が己事究明ではない何かに(地位・金・人気・承認・ご褒美)すり替わってしまう危険が常にあります。

 

自戒を込めつつ、この文章をすべての真面目な修行者に捧げます。では、また。

 

 

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