瞑想修行はうつ病治療に効果的なのだろうか? その4
こんにちは! ブログを開いてくださった方、ありがとうございます。
私のうつ病その後については、大体話してしまったように感じます。自分自身にどうやら、内因性(生来の)のうつ病の要因があり、それを受け入れ共存していくより他ない、と覚悟を決めたのでした。
病気は病気、修行は修行としてやっていく、ということです。長い間「うつ病完治」を目標に精進してきた私には、困ったことになったわけですが、かといって次のプランもない。
とりあえず、この問題は脇に置いておいて、今回は、うつ症状の取り扱い方について、お話してみたいと思います。ご苦労されている方は、すでにご存知のことかもしれませんが。
競争が焦りを生み、うつ病は悪化する
うつ病になった当初は、とにかく症状軽減にせっかちでした。「早く良くなりたい」という気持ちが強かったのです。
古本屋の経営は常に競争にさらされていました。ブックオフを始め、大規模古書店からの攻勢はどんどん増していく一方でした。また、同じような規模の他店との競合もあります。その競争に勝たなければ、売上は立ちません。
夫婦での経営です。他に収入はありません。店の売上だけで、店舗の家賃、自宅の家賃、生活費を賄(まかな)わなければなりません。就学中の子どもも2人いたので、そちらにもお金はかかります。
具合が悪いからと、寝てばかりいるわけにはいきません。ただ、ご存知のように、うつ病は著しく精力を削ぐ病気です。当時は午前11時の開店でしたが、午後1時までは妻に任せ、私は自宅で寝ているという状態が長く続いたように記憶しています。
寝てはいますが、前段でお話したような状況が常に頭にありますので、それが気になってしようがない、気にしているだけでなく、ついつい無理をしてしまう。そのせいで、うつ症状が悪化してしまう、ということがよくありました。「頑張らなきゃ・・・」という思いで、ついオーバーワークしてしまうのです。
うつ病はガス欠に似て・・・
主治医のM先生に次のように諭されたのを、今でもときどき思い出します。
「うつ病は、車に例えれば、ガス欠のような状態です。休養をよくとって、ガソリンが溜まるまで辛抱強く待つ。そして、様子を見ながら少しずつ試運転していくんです。藤原さんのやり方は、ガソリンがまだ充分に溜まっていない状態で、空ぶかししているような感じなんです」
もうひとつM先生が言われたのは、「様子を見て、調子が良ければひとつだけ足す、悪ければひとつ引く、そうして調節していくんです」と。
なるほどなあ、と思いました。私は「待てなかった」のです。人生ある時期には「待つ力」が必要なようです。それに関して思い出すのは、以前勤めていた会社のお別れ会の際、社員の皆さんから寄せ書きをいただきました。そこにある先輩が「『ゆっくりということを学べ』開高健。私の好きな言葉より」と書いてくれました。
私の生き方がいつも先に進むことばかりで、もう少しゆっくりしたところがあった方がいいんじゃないか、と先輩は思ったのでしょう。それをストレートに言うのではなく、「私の好きな言葉」として置き、暗に「俺もそうなんだけど」と優しく諭してくれたのだと思います。
そして、空ぶかしは続く。わかっちゃいるけど・・・
M先生のアドバイスは役には立ちましたが、それを実行するのは容易ではありませんでした。何度も「空ぶかし」をしては失敗し、その度に思い直し、自分に言い聞かせて、少しずつ日常生活を送っていく、という感じでした。
「わかっちゃいるけど、やめられない」私でした。もともと性格がせっかちなのかもしれませんね。せっかちな人に、もう少しのんびりとやれよ、と言ったって、それは見当違いな助言というものです。
そういう人には、こう言うしかありません。「焦る気持ちはわかるけど、それが症状を悪化させることもあるので、自分の体調、気分を考えて、少しずつ少しずつやっていこうね」と。
残念ながら、誰もそう言ってくれる人がいなかったので、自分で自分に言っていたわけです。それは本当に孤独な闘いでした。
運が良かった、そして・・・
瞑想修行にもときどき休養が必要かもしれません。私は禅仏教をまず学び、わけがわからなくなり、「もう仏教のぶの字も見たくない!」と思ったこともありました。禅の会がなければ、禅の仲間がいなければ、絶対に続かなかったでしょう。その点は大いに感謝しています。
その後もスランプは度々やってきました。そういうときは「もう、こんなこと、辞めてしまおうかなあ、もっと楽しく人生を送った方がいいのかもしれない・・・」と思います。人生をおもしろ可笑しく過ごす才能があれば、きっと辞めていたでしょう。しかし、私はその才能に恵まれなかったらしく、しばらく休んだ後、再び瞑想修行を続けたのです。
私の持っている負の要素が、むしろ瞑想修行を後押ししているのではないか、と思うことがあります。少し仏教の理解を得て、つかの間の喜びに浸るときは、「うつ病のおかげで理解が得られた。人生の帳尻があってきた!」と思うときもあります。
しかし、修行は続きます。修行の果実を求める気持ちが前に出てきてしまうと、再び苦しむことになります。そして、「ああ、もうこんなことなら、修行なんてやめちまえ!」という投げやりな気持ちになることだってあるのです。
なぜ、今まで続けられているのか、自分でもはっきりとはわかりません。ただ、そのことを考えるとき、いつも思う話があります。本で読んだ格闘家の話です。その格闘家は死闘を繰り返し、生き残った格闘家なのですが、「どうして、あなただけが、生き残れたんですか?」と問われ、こう答えたそうです。
「私は運が良かった。・・・そして、あきらめなかった」
紙数も重ねました。そろそろ、切り上げねばなりません。また、何か思いついたら、このタイトルで書いてみようと思います。
読者の皆さんが、少しでも健やかになりますように。生きとし生けるものが、幸せでありますように。