【臨済録】やさしい現代語訳・解説 上堂7
こんにちは!
今回は、黄檗禅師の棒は、すこぶる痛かったはずだ。
①読み下し文
上堂(じょうどう)。僧(①)問う、如何(いか)なるか是れ仏法の大意。
師、払子(ほっす)を竪起(じゅき)す。
僧便(すなわ)ち喝す。
師便ち打つ。
又、僧(②)問う、如何なるか是れ仏法の大意。
師、亦(ま)た払子を竪起す。
僧便ち喝す。
師も亦た喝す。
僧擬議(ぎぎ)す。
師便ち打つ。
師乃(すなわ)ち云(いわ)く、大衆、夫(そ)れ法の為(ため)にする者は喪身失命(そうしんしつみょう)を避けず。我れ二十年黄檗先師の処に在って、三度(みたび)仏法的的(てきてき)の大意を問うて、三度他(かれ)の杖(じょう)を賜(たま)うことを蒙(こう)むる。蒿枝(こうし)の払著(ほっじゃく)するが如くに相似たり。如今更(いまさら)に一頓(いっとん)の棒を得て喫(きっ)せんことを思う。誰人(たれびと)か我が為に行じ得ん。
時に僧有り、衆を出(い)でて云く、某甲(それがし)行じ得(う)。師、棒を拈(ねん)じて他(かれ)に与う。其(そ)の僧接せんと擬(ほっ)す。師便(すなわ)ち打つ。
②私訳
臨済禅師が上堂の際、ある僧(①)が問うた。
「仏法の大意とはなんでしょうか」
臨済禅師は払子(短い柄に動物の毛や麻が先に付いた仏具)を立てた。
僧は喝した。臨済禅師はその僧を棒で打った。
また、別の僧(②)が問うた。
「仏法の大意とはなんでしょうか」
臨済禅師は、また払子を立てた。
僧は喝した。臨済禅師もまた喝した。
僧は思案した。臨済禅師はその僧を棒で打った。
臨済禅師はさらに言われた。
「皆の衆、法を会得(えとく)しようと修行する者は、命を惜しんではならぬ。ワシは黄檗(おうばく)禅師のもとで、三度(みたび)仏法大意の一番の要(かなめ)を問うて、三度黄檗禅師の棒を賜(たまわ)ることになった。それはまるでヨモギの枝で撫(な)でらたようなものだった。もう一度、そのときのような棒を味わってみたいものだ。誰かワシを打ってくれる者はおらんか」
一人の僧(③)が進み出て言った。
「私がやります」
臨済禅師は棒を取って彼に渡そうとした。僧は近寄ろうとした。臨済禅師はその僧を棒で打った。
現場検証及び解説
喝は「即今の教授」だと言いました。「今ここ」を指示する師家の教えです。修行者をただびっくりさせるために、やっているのではありません。急にやられると、びっくりするでしょうが。
びっくりしたことで、うまく「今ここ」に気づければ、教授は成功したことになります。
また、喝は基本「即今の教授」ですが、別の意味が同時に込められることも多くあります。大雑把に言えば、罰喝と称賛の喝です。テキストにはいちいち「これは罰喝である」とは書かれていませんし、臨済先生も説明はしません。「今のは称賛の喝だ。わかっておるな」というようなフォローは一切なしです(笑)。それは、打たれた側が直(じか)に感じていることでしょう。
私たちは現場にいたわけではなく、千年以上の歳月を経て、テキストだけを前にしています。ですから、臨済先生の意図を忖度(そんたく)しなくてはなりません。
喝と同じく、棒で打つことも基本は「即今の教授」です。しかし、この棒にも教授と同時に、別の意味が込められることが多いのです。そのあたりも一緒に見ていきましょう。
それともうひとつ、「払子を立てる」というしぐさですが、これも「即今の教授」なのです。時空間という平面にすっくと立つ垂直軸を表現しています。私は現代風にファーストフードの飲み物の「フタとストローのような関係」と言っています。
禅の文献には、この垂直軸が結構出てきます。「無門関」第三則の「倶胝竪指(ぐていけんし)」も、この垂直軸を表したものです。倶胝和尚という人が居て、仏教について問われると、必ず指を一本立てた。それを寺の小僧が真似をして・・・という話でした。
また、雲水の旅装束に付き物の、拄杖子(しゅじょうす・杖です)も垂直軸(無時間=即今)の表象によく使われます。そしてその際、「これは即今・・・」などとは絶対に言いません。黙って突き出すだけです(笑)。だから、禅は難解だと言われます。表象さえ理解すれば、すこぶる単純なことなのですが。
この項の場合も同じです。仕草(しぐさ)の表象さえしっかり理解すれば、単純な構図が浮かび上がってきます。
まず、①の僧の場合。
「仏教の大意」を問うた僧に対して、臨済先生は払子を立てて見せます。即今を示す仕草です。僧は喝します。これも即今を示した喝です。臨済先生は棒で僧を打ちます。これもまた即今を示す棒です。
即今➡即今➡即今という流れです。最後の棒は、この流れから見て「良し!」の意味が込められていると解釈します。
ここでひとつお断りしておきますが、このテキストに別の解釈を施(ほどこ)すことも、もちろん可能です。テキスト内での説明が著しく少ない、というかゼロであるので、どうとでも解釈できてしまいます。それが禅の文献の魅力でもあり、欠点でもあります。なぜなら、誤解される可能性が高いからです。
たとえば、この①の場合でも、「僧の喝が弱々しかったので、臨済先生は罰棒を下した」というふうに、解釈できないことはありません。しかし、これは絶対に現場に私たちが居ないとわからないことです。「僧の喝は弱々しかった」というのは、読み手の想像に過ぎません。禅はこのような想像、思念、思案、思考を嫌います。テキストを読む際にも、それが要求されているはずです。
テキストを想像を交えて解釈しだすと、難解になるばかりでなく、禅からは遠ざかります。
②の僧の場合。
臨済先生の払子に、僧の喝。①の場合は僧の喝のあと臨済先生が棒を下しますが、②の場合はここで臨済先生も喝を下します。臨済先生の喝に対して、②の僧はうまく対応できませんでした。擬議(思案)してしまいます。
法戦は思考を起こした者が負けです。臨済先生は②の僧を棒で打ちます。これは罰棒です。もちろん、「即今を離れるな」との教授の意味も込められています。「さらに精進せよ」との励ましの棒でもあるのです。
①と②とは一見似ていて、どこがどう違うのか読者は混乱します。テキストを作った方も、それを狙って似た話を二つ並べたのだと思います。そして、違いが正確にわかれば、仏教の大意がわかっている、ということです。わかっていなければ、想像を交えて理解してしまい、とんちんかんな解釈になってしまいます。
③の僧の場合。
臨済先生の長い昔話です。しかも、微妙に脚色しています。黄檗禅師の三度の棒はかなり痛かったし、辛くもあったはずなのです。なぜなら、黄檗禅師は身長2mもある巨人で、臨済先生は「小僧」と呼ばれることもあったくらい小柄な方です。しかも、撫(な)でるように打つはずはありません。
黄檗禅師の「即今の教え」を、若き日の臨済先生は受け止められませんでした。何がなんだかわからなかったのです。その後、大愚禅師の元に出向き、示唆されてやっと大悟したのです。黄檗禅師の三度の棒がいかにありがたい教えだったのかも、そのとき初めてわかりました。
また、このときの黄檗禅師の三度の棒、大愚禅師の示唆は、そのとき丁度いいあんばいに臨済先生に作用し、覚醒に導いたのです。これらは、言わば「一回こっきりの何か」だったのです。早い話が「臨済は黄檗が三度打って悟りのきっかけを作った」良しこれだ、ということで、弟子を片っ端から日に三度打った師家がいたとしましょう。成功するでしょうか?
しませんね(笑)。
臨済の機が熟したところで、黄檗禅師の三度の棒があり、最後の一句を大愚禅師が担ったのです。かけがえのない覚醒への道が見事に歩まれたのです。これは、誰も真似しようのないことですし、ましてや再現できるものではありません。
ところが、年老いて壇上に座った臨済先生は、そのかけがえない何かを「再現する者はおらんか」と学僧たちに呼びかけます。これは明らかに臨済先生の罠(わな)です。もうおわかりのように、「再現不可能なものを再現してみよ」との仰せだからです。
臨済先生の挑発に、まんまと引っかかった勇敢な学僧は、案の定臨済先生に打たれます。罰棒です。もちろん、「禅は即今だぞ!」との教えと励ましがこもった棒であることは、言うまでもありません。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。