【臨済録】やさしい現代語訳・解説 上堂5

2023/09/06
 

 

こんにちは!

今回は、臨済先生、二僧に大敗す。

 

①読み下し文

上堂(じょうどう)、僧有り、出(い)でて礼拝(らいはい)す。

師便(すなわ)ち喝(かっ)す。

僧云(いわ)く、老和尚、探頭(たんとう)すること莫(な)くんば好(よ)し。

師云く、你什麼(なんじいずれ)の処に落在(らくざい)すと道(い)うや。

僧便ち喝す。

又、僧有り問う、如何(いか)なるか是(こ)れ仏法の大意。

師便ち喝す。

僧礼拝す。

師云く、你好喝(なんじこうかつ)と道うや。

僧云く、草賊大敗(そうぞくたいはい)す。

師云く、過(とが)は什麼(いずれ)の処にか在る。

僧云く、再犯容(さいぼんゆる)さず。

師便ち喝す。

 

②私訳

臨済禅師が上堂すると、ある僧が進み出て礼拝(らいはい)した。

臨済禅師は喝した。

僧は言った。「和尚、探りをいれるのはやめてくださいよ」

臨済禅師「お前、今の喝がどこに落ちたと言うのか」

僧「喝!」

 

また、別の僧が問うた。「仏法の大意とは何でしょうか」

臨済禅師は喝した。

僧は礼拝した。

臨済禅師「お前はこれを良い喝だと言うのか」

僧「山賊め、ぼろ負けしよった」

臨済禅師「敗因はどこにある」

僧「 二度目の犯罪は許しませんぞ!」

臨済禅師「喝!」

 

現場検証及び解説

 

この項に登場する僧二名は無名ではありますが、臨済先生と対等にやり合う、なかなかできる僧です。また、「喝!」は基本的には、「即今」を示す教えではありますが、その場に合わせて、他の意味も含意(がんい)させています。この項の臨済先生と二人の僧はそれをやっています。

激しいやり取りの中の含意を、補足しながら解説していきます。

 

①の僧の場合

僧は、おそらく臨済先生に向かって礼拝します。高僧で機鋒(きほう)激しい臨済先生に、尊敬の意を表したものと思われます。

普通は、この礼拝に対する受諾というか、挨拶があってしかるべきです。ところが臨済先生は、それをすっとばして、いきなり「喝!」を浴びせます。いきなり法戦を仕掛けます。

並の僧なら、この時点で「擬議」、つまり動揺して思考を発生させてしまい、負けを喫してしまうところです。

僧は冷静に「和尚、探りをいれるのはやめてくださいよ」と受け流しました。なかなかできる僧です。

しかし、臨済先生も攻撃の手を緩めることはありません。

「お前、今の喝がどこに落ちたと言うのか」とさらに問います。

ですが、気を付けてこの言葉を吟味してみてください。臨済先生が仕掛けた罠(わな)が見つかります。キーワードは「どこに」です。仏法の根本は「即今=仏性=本来の面目」です。そして、ソレは無時空間です。師家は学僧に言葉を投げかけ、即今から逸(そ)れさせようとします。そして、即今から逸れてしまったら、法戦は負けなのです。

修行が浅く、即今がまだ充分に根付いていない学僧なら、すぐに臨済先生の「どこに?」に反応して、空間的思考を発生してしまうでしょう。「擬議」してしまうのです。修行が練れていて、即今が身についた学僧なら、容易に即今から逸れることはありません。

①の僧もそのような僧でした。すぐに臨済先生の企(たくら)みを見抜き、「喝!」を繰り出します。この喝は「罠は見破っていますぞ!」という意味にもとれますし、「どこに落ちたか?」の答えにもなっています。すなわち「今ここ(即今)です」と。

おそらく臨済先生も、この僧には満足されたことと思います。

 

②の僧の場合

この僧はオーソドックスに「仏教の大意」を尋ねます。

臨済先生「喝!」すなわち「仏教の大意は即今である」と示します。

学僧はそれを受け止め、聖なる即今に礼拝(らいはい)します。ここで「わかっているなら、それでよろしい」と認めても問題はないと思うのですが、臨済先生はさらに仕掛けていきます。

「お前はこれを良い喝だと言うのか」

臨済先生の罠がわかりますか? そうです。「良い」という言葉が曲者(くせもの)です。

仏法の大意は「即今=仏性=本来の面目」です。これは時空間に立つ無時空間の垂直軸のようなものです。そこには「昨日や明日」はありません(無時間)。また、「こことあそこ、わたしとあなた、良いと悪い」もありません(無空間)。要するに「思考が発動して全き世界を二つに分割してしまう前」の意識が、仏法の目指す境地なのです。この境地を「一(いつ)なるもの」「ワンネス」「非二元」などと表現します。

私たちの普段の意識はこの「一(いつ)なるもの」から、まず二つに分かれ、さらに分かれ、さらに分かれ・・・というふうに細分化されてしまっています。禅僧はそれを一切拒否します。必要最低限の分割しか受け入れません。しかし、分割せずに居ることは大変困難なことです。なぜなら、思考を発生し、世界を分割し続けることは人間の基本設定であるからです。

さて、臨済先生と学僧の対決に戻りましょう。臨済先生は「この喝を良いと思うか?」と学僧に問いかけました。上記の説明ですでにおわかりのように、ここでうっかり「良いの悪いの」を言ってしまうと、アウトなのです。

②の学僧はその手には乗りません。「山賊め、ぼろ負けしよった」と受けます。山賊というのは臨済先生のこと。「良いの悪いのを持ち出した時点で、臨済先生、あなたの負けですよ。私はその手には乗りません」という意味でしょう。

臨済先生、負けを一応認めますが、「敗因はどこにある」とさらに仕掛けます。この「どこに」に答えてしまうと、アウトです。

学僧は「二度目の犯罪は許しませんぞ!」と返します。臨済先生は「良い悪い」を持ち出し初犯を犯し、「どこに」と問うことで再犯を犯します。学僧の「許しませんぞ」はむしろ「いい加減にしてください」という意味でしょう。

臨済先生は「喝!」を下します。この喝は称賛(しょうさん)の喝です。「お前、なかなかやるじゃないか」というところです。もちろん「仏教の大意の教授」も含んだ喝です。

いかがでしたでしょうか。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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