【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆37
こんにちは!
今回は、「意識は自動的に対象に走り出す」
①読み下し文
大徳、你波波地(なんじははじ)に諸方に往(ゆ)いて、什麼物(なにもの)を覓(もと)めてか、你が脚板(きゃくはん)を踏んで濶(ひろ)からしむ。仏の求むべく無く、道の成(じょう)ずべき無く、法の得べき無し。
外に有相の仏を求むれば、汝(なんじ)と相似ず。汝が本心を識(し)らんと欲すれば、合(ごう)に非ず亦(ま)た離に非ず。
道流(どうる)、真仏無形(むぎょう)、真道無体、真法無相。三法混融(こんゆう)して一処に和合す。既に弁ずることを得ざるを、喚(よ)んで忙忙(ぼうぼう)たる業識(ごっしき)の衆生と作(な)す。
②私訳
諸君はあちらこちらと諸国を渡り歩き、一体何を求めて足を平たくしているのか。求むべき仏なく、成就(じょうじゅ)すべき道なく、得るべき法はないのだ。
外に向かって形ある仏を求めれば、それは汝自身(真我)とは似ても似つかない者だ。
諸君が本当の心(本来の面目)を認識しようとすれば、それは「自分と同じものだ」とも言えないし「自分とは別のものだ」とも言えないのだ。
真の仏は形が無い。真の道は体が無い。真の法にも形は無い。真仏・真道・真法は混ざっていて融合しており、ひとつになっている。これがわからぬ者は、無明に迷って慌てふためくことになるのだ。
現場検証及び解説
雲水(諸国を旅して歩く僧)に向かっての法話でしょうが、不親切というか、頭の上から冷水を浴びせるような、臨済先生のお言葉です。
なおかつ、求めるべき「仏、道、法」すべて「無い」とおっしゃる。これでは雲水の立つ瀬がありません。概念化した「仏、道、法」は実物とは別モノだぞ、という警告はその通りだと思いますし、何度も聴いてきたことです。
しかし、その実物を知る方法については教えてくれません。しいて言えば、「只今即今この法話を聴いている者、それこそが仏だ」という教えがあります。何度も繰り返される臨済先生のフレーズです。「聴いている者」とはもちろん個我のことではなく、その背後の真我のことです。そう指摘されて、ハッと気づけば覚醒ですが、この言葉で覚醒したという記録は「臨済録」には載っていません。
もうひとつの教えは「法を求めて、バタバタ走り回るより、無事にしておれ」という言葉。この無事というのも難しい意味を含んでいます。ただ、ぼんやり日々を過ごせ、ということとも違います。私なりに解釈しますと、「即今を離れず、物事に巻き込まれないようにする」ということです。
ここでも誤解が生じやすいのですが、「無事」は「何事も見て見ぬふりをしておれ」ということとは、全く違います。
人の意識はほぼ自動的に対象に向かって走り、対象に触れ、対象を掴(つか)み、対象について思考し、感情が起こり、欲望し、行動し・・・というようなプロセスがあります。それらは、自覚的ではありませんので、どんどん物事を複雑化していきます。それが煩悩であり、私たちの苦しみの原因です。普通にしていれば、無事では済みません。
ですから、そのプロセスに気づくのが瞑想修行の重要なポイントです。もちろん最初から気づけるわけではありません。集中力を付け、気づきのパワーアップをはからないと、心の動きは速いので、捕まえられません。しかし、地道に瞑想修行に取り組めば、だんだんとプロセスに気づくことができるようになります。
ただ、プロセスに気づけば、それで苦しみから解放されるわけではありません。プロセスのパターンは、たいてい私たちの根強いクセになっていますので、容易には取れません。パターンが終わるまで気づき続けることが必要です。しかも、いつ終わるのかわかりません(笑)。根気よく続けるしかないのです。
諸君が本当の心(本来の面目)を認識しようとすれば、それは「自分と同じものだ」とも言えないし「自分とは別のものだ」とも言えないのだ。
これは一体どういうことなのでしょうか? 今まで私は「真我=仏性=本来の面目とは私たち自身のことです」と公言していたので、こういうことを言われてしまうと、絶句せざるを得ません。「汝」を私は「自分」と訳しましたが、「汝」とは何をもって「汝」とするのか、というところから話を始めないといけないのでしょうが・・・。
しかし、そういう話は一切抜きにして、臨済先生は「汝」の両義性を持ち出します。これは、覚醒体験をしたものでないと、とてもじゃないが歯が立ちません。
当てずっぽうに言えば、私は100%のオレンジジュースを想像します。そしてその100%オレンジジュースを手に持ち、高らかに臨済先生がおっしゃるのです。「これは水だとも言えるし、水でないとも言える」
これがわからぬ者は、無明に迷って慌てふためくことになるのだ。
このようにとらえがたいもの、あるいはそもそもとらえられないものを、とらえられないから、私たちは凡夫はバタバタするのだと・・・。このチョウ上から目線のお言葉は、何度聴いても愉快ではありません。仏教には平等の教えがありませんでしたっけ?
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。