【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆35
こんにちは!
今回は、昭和の野球小僧は「ドンマイ!」を連呼していたよなあ。
①読み下し文
道流、山僧が仏法は的的相承(てきてきそうじょう)して、麻谷(まよく)和尚、丹霞(たんか)和尚、道一(どういつ)和尚、盧山(ろさん)と石鞏(せきぎょう)和尚と従(よ)り、一路に行じて天下に徧(あまね)し。人の信得する無く、尽(ことごと)く皆な謗(そしり)を起こす。
道一和尚の用処の如きは、純一無雑(むぞう)なり、学人三百五百、尽く皆な他(かれ)の意を見ず。
盧山和尚の如きは、自在真正にして、順逆の用処、学人涯際(がいさい)を測(はか)らず、悉(ことごと)く皆な忙然(ぼうねん)たり。
丹霞和尚の如きは、翫珠隠顕(がんじゅおんけん)し、学人の来たる者、皆な悉く罵(ののしら)る。
麻谷の用処の如きは、苦きこと黄檗(おうばく)の如く、皆な近づき得ず。
石鞏の用処の如きは、箭頭上(せんとうじょう)に向(お)いて人を覓(もと)む、来たる者は皆な懼(おそ)る。
山僧が今日の用処の如きは、真正成壊(じょうえ)し、神変(じんぺん)を翫弄(がんろう)し、一切の境に入れども、随所に無事なり。境も換(か)わること能(あた)わず。
但有(すべ)て来たって求むる者は、我れ即便(すなわ)ち出(い)でて渠(かれ)を看る。渠は我れを識(し)らず。我れ便ち数般(すうはん)の衣を著(つ)くれば、学人は解(げ)を生じて、一向(ひたむき)に我が言句に入る。
苦なる哉(かな)、瞎禿子(かくとくす)無眼の人、我が著くる底の衣を把(と)って青黄赤白を認む。我れ脱却して清浄境中に入れば、学人は一見して、便ち忻欲(ごんよく)を生ず。
我れ又脱却すれば、学人は失心し、茫然(ぼうぜん)として狂走して言う、我れに衣無しと。
我れ即ち渠に向って、你は我が衣を著くる底の人を識(し)るやと道(い)えば、忽爾(こつじ)として頭を回(めぐ)らして、我れを認め了(おわ)れり。
②私訳
諸君、ワシの仏法は祖師より正しく受け継いできたものだ。麻谷和尚、丹霞和尚、道一和尚、廬山和尚、石鞏和尚に付き従い、それを天下に行じてきた。しかし、人びとはこれを信じず、むしろ誹謗(ひぼう)してきた。
道一和尚の指導は純粋無雑で、学人が三百から五百人いたが、誰一人和尚の真意を理解する者はいなかった。
盧山和尚の指導は自由自在に、学人に寄り添ったり逆らったり。学人はこの微妙なところがわからず、皆呆然(ぼうぜん)としてしまった。
丹霞和尚の指導は珠を手中に弄(もてあそ)び、現したり隠したり、学人は皆罵(ののし)られた。
麻谷和尚の指導は苦きこと黄檗(おうばく)の如く、学人は近づけなかった。
石鞏和尚の指導は弓矢で学人に対したから、皆恐れた。
ワシの最近の指導は、学人の前で即今を保ったり壊したり、変幻自在にもてあそぶ。どんな状況へも物怖じせず関わり合い、しかもワシは無事である。つまり即今から離れても、状況に巻き込まれることがないのだ。
学人が来たならば、ワシは出ていって、学人の渠(かれ・真我=仏性=本来の面目)をよくよく見る。学人の渠は自分のことを自覚していない。
そこでワシは、ワシの渠に数種の衣装を着てみせる。学人は理解したつもりになって、しきりにワシの言句について回る。
やれやれ、はげっ面の盲人は、ワシが着ける衣装を青黄赤白と品定めする。ワシが衣装を脱ぎ捨て、清浄な状態に戻ったら、それを見て、今度はやたらにありがたがる。
そしてさらに、清浄身を脱ぎ捨てれば、学人は肝を潰し呆然とし、あわてふためいてこう言うのだ。「和尚は裸だ!」と。
そこでワシは学人の渠(真我=仏性=本来の面目)に向かって言うのだ。「お前は、ワシの衣装の背後にいる者(渠)を認識しているか」
そこでやっと学人は、にわかに振り返って、本来の自分(渠)を認識するのだ。
現場検証及び解説
ワシの仏法は祖師より正しく受け継いできたものだ。
祖師というのは達磨大師のことでしょうか、それとも釈尊のことでしょうか。まあ、それはどちらでもいいです。
私が言いたいのは、「そもそも法とは受け継ぐものなのか」という疑問です。禅ではよく、誰々の法を継ぐ、ということが問題になって、後継者問題なんてものも起こっているようですが。
私はこう思います。「法とはどんな個人にも今此処に在るものであり、その機会さえ与えられれば、誰にでも発見できるものだ」と。したがって、継いだり、継げなかったりするものではない、ということです。禅が問題にする法嗣(師匠の後継ぎ)は、その覚者の法の表現の仕方を継ぐ、ということだろうと思います。
繰り返しになりますが、法そのものは覚者も未悟も、全く同じです。なにしろ、独りのものが、それぞれの個体を通じて、世界を様々に映し出している、のが真実ですから。
したがって、個性が発揮されるのは、法そのものではなく、法の表現の仕方、学人の指導法です。臨済先生はご自身の元同僚を例に挙げ、その方々がいかに個性的であったか。そして、残念なことに、いかに学人たちがそれを理解し得なかったか、を熱っぽく語られます(笑)。
ま、修行の足しになるような情報は、まったくありません。次に続く、ご自身の例に期待した方が良さそうです。
ワシの最近の指導は、学人の前で即今を保ったり壊したり、変幻自在にもてあそぶ。
何度も申し上げていることで、恐縮ですが、覚者も未悟も精神構造は全く同じです。ただ、覚者には真我=仏性=本来の面目の自覚がありますが、未悟にはない、あるいはその自覚が浅い、という違いだけです。
即今は真我の正面玄関のようなものです。誰でもこの正面玄関を通って世界を認識しています。未悟は無自覚にここを通り過ぎ、世界を夢の如く認識してしまいます。夢の如くというのは、時間があるが如く、空間(関係)があるが如く、ということです。
瞑想修行をして、思考をよく調べていくと、時間と関係をウロウロしていることに気が付きます。未悟はこうして世界を複雑化していきます。覚者はそうしたことに自覚的ですから、無駄なウロウロは一切無し、シンプルな精神構造なのです。
会社で上司から理不尽な責を受けムカッとしますが、会社の玄関のドアを開けて外に出たとたんに自動的にその事実を忘れてしまう人がいます。こういう人は一種の覚者です。
また、同じく会社のトラブルに腹を立て、帰路の車中で散々毒つきますが、家に帰って晩御飯にありついたとたん、しみじみ「上手いなあ!」と思う、これも一種の覚者です。
要は「嫌なことはなるべく早く忘れて気分を切り替える」ということです。また、「良きこともいつまでも握りしめていないで、少し楽しんだらパッと手放す」ということです。今此処に集中すること、このことが案外大切なのです。
野球選手で守備のミスをしたとき、グラブをバシバシ拳で叩いたり、バウンドが変わった土を恨めし気にならしてみたりする人がいます。こういう動作は後悔の念が、彼を襲っている証拠です。しかし、今は反省している場合じゃありません。気分を切り替えて試合に集中すべきです。
切り替えの上手だったのが、巨人の名三塁手、長嶋茂雄さんです。自分のミスも「ドンマイ、ドンマイ!」(ドント・マインドの略)と大声で叫んで、すぐに忘れてしまったそうです。また、打席の際に、かの野村克也捕手が呟(つぶや)き戦法で攪乱(かくらん)しようとしましたが、長嶋茂雄選手にだけは全く通用しなかったそうです。
このようにゲームに集中できる選手は珍しいのかもしれません。しかし、その即今力が強すぎて、幼き長嶋一茂くんを球場に忘れて帰ってしまったことがあるそうです(笑)。あの方ならやりかねないエピソードです。
臨済先生も即今力が強い方です。しかし、同時に「即今を離れ時空間を自由自在に働く」という技もご存知です。そして、必要なときにはパッと即今に戻れるという離れ技をやってのけます。
学人が来たならば、ワシは出ていって、学人の渠(かれ・真我=仏性=本来の面目)をよくよく見る。学人の渠は自分のことを自覚していない。
当然のことながら、学人は自身の渠に気づいていません。そこでしかたなく、臨済先生はあれこれと渠のことを表現してみます。学人は言葉について回るばかりで、理解したつもりになるばかりです。清浄身、つまり即今に立ち戻ると、今度はやたらにありがたがります。どのように、指導しても自分の渠を認識しようとはしないのです。
そこで臨済先生はさらに清浄身の度合を深めます。これがどのような状態なのか、はっきりしたことはわかりませんが、前段の清浄身はありがたがったのに、今回の清浄身は学人が怖れて慌てふためくというのですから、尋常の様子ではなかったのでしょう。
そこでワシは学人の渠(真我=仏性=本来の面目)に向かって言うのだ。「お前は、ワシの衣装の背後にいる者(渠)を認識しているか」
学人が驚嘆し自我が奪われたところで、臨済先生の決め言葉です。臨済先生の渠が学人の渠に直接話しかけ、何らかの覚醒が起こった模様です。背後に常に存在している渠に自ずから学人は気づいたのです。いやあ、このような指導を受け、一瞬でいいから渠を垣間見てみたいものです。うらやましい!
結局は自我を観察しつくしていく、何らかの方法でそれを退散させる(しかも強制ではなく、自然に消えていくように)ことなのでしょう。私の場合、瞑想修行をしながら、その方法、ヒントを探している毎日です。でも、最近気がついたのですが、探す、工夫する、目指す、という行為そのものが、暑苦しいというか、自我じみていて、ああもうめんどくさい、好きなようにやろう、と最近は思うようになりました(笑)。
皆さんはどのように修行に取り組まれているのでしょうか? 気になるところです。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。