【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆33

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「信不及」について、一家言申し上げました。

 

①読み下し文

道流(どうる)、寔情大難(しょくじょうたいなん)、仏法は幽玄(ゆうげん)なり。解得(げとく)すること可可地(かかじ)なり。

山僧竟日(ひねもす)、他(ひと)の与(ため)に説破(せっぱ)するも、学者は総(す)べて意に在(お)かず。

千徧万徧(せんへんまんへん)、脚底(きゃくてい)に踏過(とうか)して黒没焌地(こくもつしゅんじ)にして、一箇(いっこ)の形段(ぎょうだん)無くして歴歴孤明(れきれきこめい)なり。

学人信不及(しんふぎゅう)にして、便(すなわ)ち名句上に向(お)いて解(げ)を生ず。年の半百に登(なんなん)とするまで、祗管(ひたすら)に傍家(ぼうけ)に死屍(しし)を負(お)うてて行き、担子(たんす)を担却(たんきゃく)して天下に走る。

草鞋銭(そうあいせん)を索(もと)めらるること日有らん。

大徳(だいとく)、山僧が外に向(お)いて法無しと説けば、学人会(え)せずして、便即(すなわ)ち裏(うち)に向いて解を作し、便即ち壁に倚(よ)って坐し、舌、上齶(じょうがく)を拄(ささ)えて、湛然(たんねん)として動ぜず。

此れを取って祖門の仏法なりと為是(な)す。大いに錯(あやまれ)り。

是(こ)れ你若(なんじも)し不動清浄の境を取って是(ぜ)と為(な)さば、你即ち他(か)の無明(むみょう)を認めて郎主(ろうしゅ)と為す。

古人云く、湛湛(たんたん)たる黒暗(こくあん)の深坑(しんこう)、実に怖畏(ふい)すべし、と。

此れ是れなり。你若し他(か)の動ずる者を是と認むれば、一切の草木皆な解(よ)く動く、応(まさ)に是れ道なるべきや。所以(ゆえ)に動は是れ風大、不動は是れ地大。動と不動と、倶(とも)に自性無し。

你若し動処に向(お)いて他(それ)を捉(とら)うれば、他は不動処に向いて立たん。你若し不動処に向いて他を捉うれば、他は動処に向いて立たん。譬(たと)えば泉に潜む魚の波を鼓(こ)して自ら躍(おど)るが如(ごと)し。

大徳、動と不動とは是れ二種の境なり。還(かえ)って是れ無依(むえ)の道人、動を用い不動を用う。

 

②私訳

諸君、本来の性質を自覚することは、大変困難なことだ。我らを生かしめている仏性は、ぼんやりしていて、しかも奥深い。しかし、理解することは可能なのだ。

ワシは一日中、学人に説いているが、さっぱりわかってもらえない。

諸君が一日に千回も万回も踏んでいるソレ(真我=仏性=本来の面目)は、真っ黒に焼け焦げており、形は無いがありありと独り輝いているのだ。学人は自分の素直なとらえ方が信じきれないので、言葉の上でそれを理解してしまう。

五十にもなろうかという年になっても、脇道にそれ死体(観念)を担(かつ)ぎ、荷物(言葉)を担いで天下を走り回る。そんなことでは閻魔(えんま)さまに草鞋銭(わらじせん)を請求されることになるぞ。

諸君、ワシが「外には法無し」と説くと、学人はその真意を誤解して、内面に答えを求めようとする。すなわち、壁に寄りかかって坐し、舌で上顎(うああご)を支え、湛然(たんぜん)として動かない。それを祖師の仏法だと思っている。大間違いだ。

諸君がもし、不動にして清浄な状態を良しとするならば、無明を主人とするようなものだ。

古人は言った。「心静かに暗黒の穴に坐すは、実に恐ろしいことだ」と。これと同じことだ。

しかしもし諸君が、それなら動くのが良いのだと思うのなら、草木も皆よく動くではないか。これが仏道と言えるだろうか?

動とは「ものの動きを生長させる」性質のもの。不動とは「保持する」性質のものである。動と不動はそれぞれ、単独で存在できるものではない。

たとえば、もし諸君が、現象を「動き」としてをとらえようとすると、一方では「不動」の視点が存在していなければならない。逆に諸君が、現象を「不動」としてとらえようとすると、「動き」の視点になってしまう。池に住む魚が波を立てて踊り上がるようなもので、水だけ単独でとらえることはできないのだ。

諸君、動と不動は現象の2つの側面にすぎない。何にも依存せぬ道人(覚者)は、それをわかったうえで、動を使い不動を使うのだ。

 

現場検証及び解説

 

今回の私訳は、読んでそのままわかるように、かなり言葉を付け加えて訳しました。臨済先生の意を汲んで、訳したつもりです。それでも、仏教やスピリチュアルな話に馴染みのない方は、よくわからないかもしれません。さらに、説明を付け加えます。

 

諸君、本来の性質を自覚することは、大変困難なことだ。我らを生かしめている仏性は、ぼんやりしていて、しかも奥深い。しかし、理解することは可能なのだ。

私たちが認識するこの世界は、言わば「映画の世界」のようなものです。白地のスクリーンに映像が映し出されています。映像の中に私たちの肉体もあります。

未悟の人は映像に心を奪われて、白スクリーンの存在の自覚がありません。しかし、観ていないわけではありません。無意識のうちに、白スクリーンも観ている。そのような状態です。

一方、覚者は白スクリーンを知った人です。何らかの方法で、あるいは何の理由もなく、「白スクリーンの自覚」が起こったのです。

未悟も覚者も認識の構造はなんら変わるところはありません。

 

学人は自分の素直なとらえ方が信じきれないので、言葉の上でそれを理解してしまう。

とはいえ、真我、本来の面目の自覚は大変困難なことのようです。臨済先生は、「精魂込めて語っているのにわかってもらえない」と嘆いていらっしゃいます。ソレは身近過ぎて認識できない、形がないので認識できない、ということのようです。

では、どうすれば、そのことが自覚できるのでしょうか。ここで、臨済先生がよく言われる「信不及」あるいは「自信不及」の言葉をキーワードに、自覚への道を探っていきたいと思います。

 

それはまず、私たちの固定観念を捨てることによってです。固定観念を捨て去れば、元々そこにある真我がダイレクトに作用しだす、ということです。「私は固定観念などもっていない」と言う方も大勢いらっしゃるかと思いますが、よくよく見直してみると、そうではありません。

親が、教師が、社会の先輩がそう言っているから、そうなのだと素直に受け入れていることが数多くありませんか。それらは、じっくりと自分で確認した上で、受け入れたわけではありません。社会に適合するということは、そういうことです。そういう素直な人が大勢いるので、社会が成り立っているのだとも言えます。しかし、それらは「社会の約束事」であって、真実ではありません。

 

仏教の真実は「社会の約束事」とは違っています。その真実を知るには、当たり前だと思っているその「社会の約束事」を頭の中から一掃して、真実を受け入れられるようにする必要があります。

ですから、瞑想修行の第一段階は、「信じる」ことよりも「疑うこと」です。生来無批判に受け入れてきた社会通念を疑い吟味して、確かなものでなければその理念を捨てる。そして、直(じか)に確かめられたことだけを頼りにやっていくのが瞑想修行です。

臨済先生が檄(げき)を飛ばしているのは、第一段階の固定観念の一掃は、かなりやり終えた修行僧のように思います。社会通念、固定観念を頭の中から払うと、浄化されたスペースに突然真実が飛び込んでくるようになります。もう少し私自身の実体験に沿って言えば、スピリチュアルな問題をそこはかとなく考えながら散歩していると、「ああ、そうか、それでこれはこうなんだ!」という理解が突然起こります。

本で読んだことが急に腑に落ちたりするのです。「ホントに個人っていない!」という確信が急に起こります。しかし、そのような発言は、普通の人をギョッとさせ、社会通念とそぐわないので、「え、ちょっと、待てよ、そう考える俺って変だろうか?」という反省が若干起こります。「こんなこと、他人においそれとは言えねえよなあ」みたいな。

でも、そういうとき、臨済先生が「自分の感じ方を信じていいんだよ」という意味で、信不及(自分の素直な感じ方を信じない)はダメだぞ、と言っているように思います。ぜひとも「その感じ方を信じて、深めていきなさい」と。

違うでしょうか?

深めていった先に「本来の面目の自覚」が起こるような気がします。それとは、逆に「自分の実感」を頼りにしない修行のやり方もあります。そちらの方が、確実なように感じられます。他人の言葉に依るやり方です。本を読んで勉強するということは、私たちがやるスタンダードな学び方です。どんどん学んでいけそうな気がします。

しかし、そこには落とし穴があります。知的理解で「わかったような気になって」しまうのです。このことを臨済先生は何度も何度も諫(いさ)めています。瞑想修行をしたうえで、その実感を本で確認するのは、いいと思います。また、「よくわからないけど、重要そうだ」という点は鵜吞みしないで、付箋を付けておくというのも良いと思います。教えに対する謙虚さと真剣さが必要なのです。

 

その後の文章で、言葉に迷った老いた修行僧を、臨済先生はコミカルに表現しています。なんだか、意地悪な感じもいたしますが。

また、坐禅を組んで坐りっぱなしの修行もお嫌いなようです。坐禅を全くしないのも、おそらくNGなんでしょうが、坐禅づくしというのも、「穴倉禅」「はたらきがない」と言って、この宗派では大変馬鹿にされます。

「じゃあ、どうして修行するんですか?」と聞きたくなるのですが、それに対しては臨済先生は、はっきりしたことは言ってくれません。

 

現象を「動き」としてをとらえようとすると、一方では「不動」の視点が存在していなければならない。逆に諸君が、現象を「不動」としてとらえようとすると、「動き」の視点になってしまう。池に住む魚が波を立てて踊り上がるようなもので、水だけ単独でとらえることはできないのだ。

映画のたとえで言えば、現象は映像です。不動の視点に立つとき、私たちはそれを「動き」あるいは「変化」としてとらえることができます。それは一種の盲点です。それは、私にも理解できます。

問題はその逆です。「現象を不動としてとらえようとすると、動きの視点になる」がよく吞み込めません。

現象はあくまでも「変化するもの」であって、それを不動としてとらえることは不可能なのではないでしょうか。ある現象を科学的に定式化することがあります。そのような観念化のことを「不動」としているのでしょうか。いくら定式化しても、それは動いておるぞ、というような意味で、このような表現をしているのでしょうか。

いずれにしろ、動としても不動としても、あやふやにしかとらえられんぞ、と言っているようにも思えます。

 

池に住む魚が波を立てて踊り上がるようなもので、水だけ単独でとらえることはできないのだ。

人が仏性を探すのは、魚が水を探すようなものだ、ということです。また、人と仏性は不離一体であるぞよ、と。

日本の禅僧、「白隠禅師坐禅和讃」に次のような一節がありますので、ご紹介して終わりにします。カッコ内は私訳です。

 

衆生本来仏なり (生き物は皆、仏性によって生かされているのだ)

水と氷の如くにて (仏性を水とすると、肉体精神機構は氷のようなもの)

水を離れて氷なく、衆生の他に仏なし (水と氷は不離一体で、肉体精神機構と仏性も同じことである)

衆生近きを知らずして (人間は仏性が近くにあるのを知らないので)

遠く求むるはかなさよ (かえって遠くにあるものだと勘違いして、探しに行こうとする)

たとえば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり (水の中で、喉が渇いた、水をください、というようなものだ)

 

よくできた和讃だと思います。これが、すんなりと受け入れられれば、仏教は何も難しいものではないのですが。

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 瞑想修行の道しるべ , 2023 All Rights Reserved.