【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆31

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、強為(ごうい)と云為(うんい)について。

 

①読み下し文

大徳(だいとく)、四大色身(しだいしきしん)は是れ無常なり。乃至(ないし)脾胃肝胆(ひいかんたん)、髪毛爪歯(はつもうそうし)も、唯(た)だ諸法の空相を見る。你(なんじ)が一念心の歇得(けっとく)する処、喚(よ)んで菩提樹と作(な)す。你が一念心の歇得すること能(あた)わざる処、喚んで無明樹(むみょうじゅ)と作す。無明は住処無く、無明は始終無し。

你若し念念心歇不得(けつふとく)ならば、便(すなわ)ち他(か)の無明樹に上(のぼ)り、便ち六道四生(りくどうししょう)に入って披毛戴角(ひもうたいかく)せん。

你若し歇得せば、便ち是れ清浄身界なり。你一念不生なれば、便ち是れ菩提樹に上って、三界に神通変化(じんつうへんげ)し、意生化身(いしょうけしん)して、法喜禅悦(ほうきぜんえつ)し、身光自ら照らさん。

衣を思えば羅綺千重(らきせんじゅう)、食を思えば百味具足(ひゃくみぐそく)して、更(さら)に横病(おうびょう)なし。菩提には住処無し、是の故(ゆえ)に得る者無し。

道流(どうる)、大丈夫の漢、更に箇(こ)の什麼(なに)をか疑(うたが)わん。目前の用処(ゆうじょ)、更に是れ阿誰(たれ)ぞ。把握(はあく)して便ち用いて名字に著すること莫(な)きを、号して玄旨(げんし)と為(な)す。

与麼(よも)に見得せば、嫌う底の法勿(な)し。古人云く、心は万境に随って転じ、転ずる処実に能(よ)く幽(ゆう)なり。流れに随って性を認得すれば、喜も無く亦(ま)た憂も無し、と。

 

②私訳

諸君、肉体は無常(変化するもの)だ。内臓、髪の毛、爪、歯などの器官も、また空なるもの(確固たる存在でなく、変化するもの)である。

諸君の思念の働きが止んだところを、菩提樹(涅槃の境地)と呼ぶ。諸君の心の働きが止まぬところを、無明樹(迷いの境地)と呼ぶ。

迷いには住処があるわけでなく、始めも終わりもない。諸君がもし、この思念を止めることができないなら、無明樹に登って六道輪廻を、胎生、卵生、湿生、化生の四生を繰り返し、毛に覆われ角の生えた畜生に生まれ変わるだろう。

もし、思念を止めることができたら、それが清浄身だ。ただひとつの思念も生まれないなら、菩提樹に登って、三界に神通変化し、意のままに化身し、法の喜びと禅定の喜びに満ち、身から出る光で自身を照らすだろう。

思うがままに美しい服を着たり、美食できたりし、病もない。ところが、菩提にも住処はないので、それらを享受する個人もいないのだ。

諸君はいっぱしの男子だろう。何を疑っているのだ。目前のこのはたらきは一体何者だと思うのか(真我=仏性=本来の面目がはたらいているのだ)。

つかんだらすぐさま使え。名を付けてはならん。それが玄旨(奥深く、とらえにくい真理)なのだ。このように理解できたら、嫌うものは何もなくなる。

古人は言った。「心は現象に随って変化し、変化が起こっている場所(仏性)は実に見極めがたい。現象の変化に随って、(現象が起こる場)仏性を理解すれば、喜びも憂いもない」と。

 

現場検証及び解説

 

この項では、悟りの境地と迷い(未悟)の境地を、比較対象して述べている、と要約できます。で、毎度のことですが、古代中国人はたとえ話が多く、修飾過多なきらいがあります。この項もそうです。たとえを現物に置き換え、修飾語をはぎとって、実はこういう話なんだよというところを、お話しできればと思います。

 

諸君、肉体は無常(変化するもの)だ。内臓、髪の毛、爪、歯などの器官も、また空なるもの(確固たる存在でなく、変化するもの)である。

私たちが認識しているもの、感じているもの、思考、感情、その他諸々のモノ、コトは、例外なく変化しています。つまり無常です。この世界に無常でないモノ、コトを挙げることは困難です。しかし、よくよく考えてみると、「そもそもなんで変化が認識できるんだ?」という疑問があります。

変化が認識できるということは、変化しない視点、不動の視点が存在していることを暗示していないでしょうか。私たちの認識は変化するものと不動のもので成り立っています。

そしてザックリ言えば、変化するものが無明です。そして、変化に巻き込まれてしまうことが精神的苦痛を生むのです。

しかし、変化の裏側には常に不動があります。言い換えれば迷いの裏には、常に悟りの世界があるわけです。拍子抜けしてしまいますね(笑)。

なので、修証同時だの、「悟ってみれば凡夫と同じ」だの、「悟らなくてもいいんだよ」だのという言説が出てくるのです。結局は覚者も未悟も心の構造は同じなのです。究極的には修行の必要はありません。ただ、悟らなければ精神的な苦がありますので、多かれ少なかれ人は悟りを目指すのだ、とはいえると思います。

しかし、多くの場合、この苦から目を背け、あるいは間違った方法で、この苦から逃れようとします。世間的な成功を得た後でさえ、この本質的な苦はつきまといますので、晩年に宗教的な救いを求める方も多いのです。

本質的な救いは、無常の世界で成功することとは別の次元での成功が必要です。成功という言葉よりも、成熟といったほうがいいかもしれません。霊的な成熟と呼ばれるものがそれです。

 

思念の働きが止んだところを、菩提樹(涅槃の境地)と呼ぶ。諸君の心の働きが止まぬところを、無明樹(迷いの境地)と呼ぶ。

思念とは、主に思考(シンキングマインド)、それと映像的なイメージのことを指していると、私は理解しています。修行の要点は何も難しいものではありません。思念さえ停止すれば、それが悟りだと言ってほぼ間違いないと思います。ところが、実際にチャレンジしてみると、思念の停止はそう簡単ではありません。10年以上、毎日瞑想修行を続けてても、思念が完全に止むことはまれです。以前よりは少なく、あるいは遠く、邪魔にならない程度にはなってきてはいますが・・・。

また、誤解なきように付け加えますが、覚者には全く思念が起きない、ということではなさそうです。話すという行為は思念が関与しているようにも思えます。私見によれば、「覚者は必要な思念は起こり、跡を残さない」ということだと思います。あるいは「思念は関与せずに、相手に対する自然な反応が、話すという行為となって現れる」という感じでしょうか。

観念的な言い方になりますが、「個我が話すのではなく真我が話す」のです。臨済先生がしつこくおっしゃっている「聴法底の人」は「個我が聴いているのではなく真我が聴いている」のだということです。その真我を自覚せよと促しています。

覚者が話すという事態はすなわち、「話法底の人」が話すという事態です。真我が話しているのです。そこにはおそらく、ほとんど思念が関与していないものと思われます。私たちでも、親しい間柄でのリラックスした会話は、ほとんど思念しないでやっているのではないでしょうか。

 

問題は「どうすれば思念を少なくできるのか?」ということのように思われます。「思われます」などと歯切れの悪い口調で言わざるを得ないのは、問うこと自体が間違いである可能性があるからです。しかし、思念停止に向けての、いくつかの法則性はあると思いますので、それをお伝えしてみたいと思います。

●まず、思念を観察できていることが、必要です。ときどき「私は普段なにも考えていない」とか「瞑想中、何も考えていない」という方がおられます。他人の頭の中は覗き見できませんので、断言はできませんが、それは「考えていないのではなく、思念が観察できていない状態」である可能性があります。

私自身、瞑想修行を始める前は、「思念の観察」など意識してしたことはありませんでした。やってみて最初に感じたのは「こんなにも思考とイメージが次々と湧いてくるのか!」ということでした。そして、今思えばその自覚が、瞑想修行の大きな第一歩でした。

●次に訪れる瞑想修行の壁はおそらく「思念が止まない!」ということだろうと思います。

そして、思念をコントロールしようとします。ここに大きな誤解があります。思念=自分だという考えです。これは全くの間違いです。一般社会ではよく「自分の意見を言おう」とか「自分の考えはどうですか?」などと言いますから、思念は自分である。したがって自分でコントロールできるはずだ、と思うのも無理はありません。

しかし、思念は次々と勝手に湧いてくる、手に負えない何かなのです。また、「意見=自分」あるいは「考え=自分」と思ってしまうと、意見や考えに縛られ大変苦しい思いをすることになります。意見や考えは、その時々で変わるものです。

そして、その意見や考えのことを私たちは、なんとなく自分だと思っているのです。仏陀は「自分とは思念の束だ」と言いました。このことは、瞑想修行を継続していくなかで、徐々にわかってくることです。難しいものではありません。

●思念は確かに心の中にあるもので、私らしく見えるものですが、本来の私ではありません。思念が私なら、それを対象として認識することは不可能でしょう。本来の私は思念を観察する側にあります。この観察する側のことを、私は仮に「仏性サイド」と名付けました。思念の観察が継続するほど、観察が細やかになるほど、観察の射程距離が遠くなるほど、仏性そのものに近くなる、と考えます。

これは私の仮定に過ぎません。私は結構せっかちなので、修行に何かの目安が欲しいのです。苦し紛れの理論かもしれませんし、間違った方法である可能性もありますが、今のところこの理論に基づいて瞑想修行をしていて問題はありません。

●思念は私ではなく、コントロール不可能なものです。コントロールという意図そのものが、形を変えた思考だからです。力まかせに思念を押さえつけようとするのは、火に油を注ぐようなもので逆効果です。

私が禅マスターで唯一頼りにしている藤田一照老師の著書に「現代坐禅講義ー只管打坐への道」(佼成出版社・文庫本では角川ソフィア文庫)があります。その本のなかに、道元禅師が言われた強為(ごうい)と云為(うんい)という言葉をご紹介して、この問題に接近したいと思います。道元禅師は坐禅は云為(うんい)でやるのだ、と言っています。

強為(ごうい)とは「何かを目標として立てて意志的・意図的にそれを目指して無理矢理に強引に行なうこと」です。何か女性を強姦するようなイメージが浮かんでしまいます。自分に対する問答無用の強制で、一時的な効果はあるかもしれませんが、感情的な反発と、長期的には反動が予想されます。無理なダイエットのリバウンドみたいなことが起こりそうです。

一方、云為(うんい)とは「思慮分別を離れて自ずから発動してくる自然な行ない」のことです。なんだか、春になって温まった大地から自然に植物が芽吹いてくるような印象です。云には漢和辞典によると「なつきしたがう」という意味があります。いい感じがします。

しかし、こう言われてみると反射的に「じゃあ、どうしたらいいんでしょうか」と問いたくなる私です。まったく、気の短い、せっかちで、待てない奴なのです(笑)。でも、効果が気になるのは、それほど非常識なこととも思えません。実際に私は、禅の指導者の方に「それで、どれくらい坐禅すれば効果が現れるのでしょう」とよく聞いたものです。どなたからもはかばかしい答えは得られませんでしたが。

要は「ひたすら思念を観察し、静まるのを待つ」というのが正しい修行の態度でしょうか。瞑想修行を、コスパを気にしてやると、失敗します。気長に根気よくやるのがコツのようです。

世の中の大抵の事、受験、就職、資格取得、職場などなど、どんな事にもマニュアルがあり、努力すれば段階的に成長するという世界に、私たちは暮らしています。瞑想修行にも方法があり、頑張ればできるんだ! と思ってしまっても無理はありません。私も10年程そういう態で修行をしてしまいました。

それでつくづくわかったのですが、そういう世間的なガンバリズムでは、瞑想修行はうまくいきません。目標をはっきりと見定め、ガンバリズムとは違う特殊なやり方をしなければ、仏道修行はわかってこないのだ、と理解してください。そうでないと、いくらやってもわかってこない、という悲惨な結果を招くことになります。

「北風と太陽」というイソップ童話があります。旅人のオーバーコートを脱がそうと、北風と太陽が競います。北風は強い風で無理矢理に旅人のコートを脱がしにかかります。旅人はコートの胸元をしっかりと抑え、身を縮めます。太陽は旅人に光を当て温めることによって、旅人は自らコートを脱ぎます。

瞑想修行の思念の静め方に通じる説話です。

藤田一照老師は「思念の観察」についても重要な指摘をしてくれます。「観察は思念に介入しないで、好意的に見守るように」と教えます。思念を分析したり、非難したり、否定したりすることは逆効果です。分析、非難、否定は思考です。その思考を慈悲の光で照らすように見守ってください。根気よく誠実に真剣に取り組めば、思念はいつか静かになります。

私は自分の思念を、自分のなかに居る不良少年だと感じています。ぜひ更生してほしいのだけれど、良くないことばかりやらかす不良少年です。「もうお前にはあいそが尽きた。勝手にしろ!」また「どうしてお前は何度も何度も同じ間違いを犯すのか」とさじを投げだしたくなりますが、そこを我慢して冷静に対話します。

対話の基本は慈悲、あるいは愛です。「そうか、それでこうなるんだね」「どうしてもそうしたくなるんだね」「わかった。起こったことは仕方がない。今度からは気を付けよう」と、そんな感じです。そして、思念に対する深い理解が得られれば、思念は自然に治まっていきます。恫喝(どうかつ)でなく理解が必要なのです。

無条件の受け入れ、絶対に見捨てないという信頼関係を基に、思念との継続的な対話が霊性を育むのだと思います。

すみません。なんだか、くどくなったように思います(笑)。

上記の藤田一照老師の著書は、瞑想修行に打ち込んでいる方にはおすすめの一冊です。バラエティに富んだ分野から対話者を選び、対話の中で坐禅の本質に迫っています。

説明が必要なポイントが多々残っておりますが、長くなったので、今回はこの辺でお開きにいたします。ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

 

また、お会いしましょう。

 

 

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