【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆30
こんにちは!
今回は、無事と有事(うじ)の定義を試みました。
①読み下し文
山僧が見処に約せば、如許多般(そこばくはん)無し、祇(た)だ是れ平常(びょうじょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、無事にして時を過ごす。
你(なんじ)、諸方より来たる者、皆な是れ有心にして仏を求め法を求め、解脱を求め、三界を出離せんことを求む。痴人(ちじん)、你は三界を出でて、什麼(いずれ)の処に去らんと要(ほっ)するや。
仏祖は是れ賞繋底(しょうげてい)の名句なり。你、三界を識らんと欲するや。你が今の聴法底の心地を離れず。你が一念心の貪(とん)は是れ欲界。你が一念心の瞋(しん)は是れ色界。你が一念心の痴(ち)は無色界。是れ你が屋裏の家具子(かぐす)なり。
三界は自ら我は是れ三界なりと道(い)わず。還(かえ)って是れ道流、目前霊霊地(れいれいじ)にして、万般を照燭(しょうそく)し、世界を酌度(しゃくど)する底の人、三界の与(ため)に名を安(つ)く。
②私訳
ワシの考えでは、修行法にそれほど多くのものは必要ない。ただ、平常心でいて、日常茶飯事をこなし、物事に巻き込まれずに過ごすのが良い。
各地から来る学僧たちは皆、有心(求める心・欲心)を携えてやって来る。仏を求め、法を求め、解脱を求め、三界(欲界・色界・無色界)を出離せんことを求めて来る。
愚か者め! 三界を出て、どこへ行こうというのだ。仏祖(などという言葉)は、修行者を喜ばせ、修行に繋ぎ止めるためのための名句に過ぎん。
諸君、三界を知りたいか。只今、この法話を聴いている、その心と別物ではないのだぞ。
一心に貪る心、これが欲界だ。一心に怒る心、これが色界だ。一心に夢中になっている心、これが無色界だ。これらが諸君の(心の)屋根裏部屋の家具なのだ。
三界は自分のことを「私は三界だ」とは自己紹介しない。諸君の只今、目の前で、全てのものを照らし出し、判断している不思議な力が、この三界を、三界と名を付けたのだ。
現場検証及び解説
「ただ、平常心でいて、日常茶飯事をこなす」というミッションは、なんとなくわかります。しかし、「無事であれ」という一句が曲者(くせもの)です。
私たちは勘違いしがちですが、これは「古代の中国語」です。ですから、テキスト内の「無事」と現代日本語の「無事」とは別モノだとの認識で、話を進めていったほうがいいのです。
私たちは反射的に「そちらで地震があったようですが、皆さん無事ですか?」の無事を想像してしまいます。その無事とは違うんだ、ということを、この項では主張してみたいと思います。
では、このテキストの「無事」とはどんな状態のことをいうのか。私訳では「物事に巻き込まれない」と訳しましたが、もう少し例をあげて説明してみましょう。
私は毎日あるお寺で坐禅をしていますが、かつて、たまたまある男性に、坐禅のやり方について注意する、というミッションを受けたことがありました。
その男性は坐禅中、かなり頻繫(ひんぱん)に動かれるので、それでは坐禅にならない、注意しようということになったのです。その日私の正面に男性は坐りました。数えたわけではありませんが、小一時間のあいだ、首筋をかいたり、足元をもぞもぞしたり、100回は超えないが50回はゆうに超える動きをされました。
坐禅が終わった後、お声掛けし、人が居なくなったのを見計らって、「ちょっとした注意なんですが・・・」と話しかけました。
誰でも、またどんな些細(ささい)なことでも、注意されるのは嫌なものですから、極力柔らかな言葉で、婉曲(えんきょく)に言ってみました。「坐禅中の動きが多過ぎるようなので、何とか頑張って少なくしていきませんか」というふうに。
「あ、わかりました。自分でもそう思っていたのです。なかなか心が落ち着かなくて、そうなってしまうのです」と言われたら、こちらも長年の経験から少しアドバイスして・・・との思惑だったのですが、残念ながらそうはいきませんでした。
男性には注意が受け入れがたいものだったのでしょう。言い訳を始められました。また、気分を害されたようでもありました。「今日はそんなに動いていない」「動きに感情は関係ない。私はただ首筋がかゆいからかいているだけです」「集中できていないとおっしゃるが、私を見ていたということは、あなたも集中できていなかったということではないですか」「私の動きが気になる人がいるかもしれない、とのことだが、実際に苦情がでているのですか」などなど。
ああ言えばこう言うの態で、私の方は「そんなつもりで言っているのではないのですが・・・」となだめてみましたが、そのかいもなく「辞めます」と言われ帰っていってしまいました。数分で済ますつもりが、20分以上時間が経っていました。注意とは難しいものです。また、人のもつエゴイズムの蠢(うごめ)きとは、なんと恐ろしいものかと再認識しました。
この男性は、素直に「はい」と言えば済むところを、感情的になり物事をかえってややこしくして、誰も幸せにならない結果を招くことになりました(坐禅を辞めてしまうことは、彼自身にとっても明らかに不利益です。一連の会話は不愉快でもあったでしょうし)。
このような状況が「無事でない」状況です。これを仮に有事(うじ)と名付けましょう。有事(ゆうじ)だと軍事的なイメージになってしまうので。
まず、有事(うじ)を定義してみましょう。そのことを、まずハッキリさせることによって、逆に無事が照らし出されると思うからです。
有事とは、無駄な思考の影響で、感情過多になり、物事に巻き込まれ、複雑化してしまうこと。
どうでしょう。うまく言い得ているでしょうか。今度は無事を言ってみます。これの逆を言ってみればいいわけです。
無事とは、必要な思考だけを起こし、感情的にならず、物事を場に応じて的確に処理していくこと。
どうでしょう。これを聞くと、物足りない感じがしませんか。特にお若い方にはそう思えるのではないかと想像します。そうなんです。臨済先生がおっしゃる無事は喜怒哀楽の起伏の少ない、むしろあっさりとした状態なのです。
たとえば、休日に観たい映画は、有事な映画です。無事な映画には、ドラマが欠けています。淡々とし過ぎていて、面白味がありません。しかし、それ、無事な状態が修行には大切な要素なのです。
各地を行脚し、著名な師家とやり合うのは非常にドラマチックで、若者の血をたぎらせる何かがあります。が、修行には不向きな体験なのです。
普通の人間には、無事よりも有事の方が好ましいものです。「何か面白いことねえかなあ」と思っていませんか。その不足感、欠乏感を埋めるために、私たちは金を払って、刺激のあるドラマを観なければならない。また、他人のトラブルに興味をもち、首を突っこんでいく。
ただし、安全地帯から。
悲しい、あるいは闘病克服の映画を観るのは好みますが、自分が闘病するのはごめんです。戦争映画は観たいが、自分の街が戦場化するのは絶対に嫌なのです。
そのように、自分の普段の行動、心中を振り返ると、臨済先生のいう「無事」というのは、案外難しいことに気づくきます。
また、繰り返しになりますが、上記の例で言うと、「逆恨みされても面倒なので、注意はしません」という態度は無事ではありません。単なる臆病です。この場合は、やるべきことをやって、結果を気にしない、という態度が無事です。
私は無事でしたかって? いやいや、修行が至らないせいで、無事ではありませんでした。彼(当の男性)とは終止冷静に話せましたし、満点をあげてもいいと思いますが、後がいけません。後悔の念が湧いてきました。失敗しちゃったな、という忸怩(じくじ)たる気持ちがあって、微妙な感情が後に残ってしまいました。
あえて、無事の人を想像してみれば、上記のケースの場合、注意した後、黙って彼の言い訳を聞き、「わかりました。あなたは真面目に坐禅に取り組む気がないようです。注意に随えないようなら、おやめください」とこちらから引導を渡し、送り出したら、あとはきれいさっぱり忘れてしまうという態度です。
臨済先生なら「喝!」とひと言って、終わりでしょうか。いずれにしても、無事の人であることは、なかなか難しく感じられます。
後半部分で臨済先生がおっしゃっているのは、学僧たちが必死になって探している悟りは、お前たち自身にすでに備わっておるぞ、ということです。この臨済録のなかで、何度も何度も繰り返されるテーマです。すでに皆さん耳タコ状態だと思います(笑)。私もあまり説明する気になれません。
すでに持っているけど、私たちはそれに気づかない、スルーしてしまうというか、無視してしまう・・・。
これも耳タコでしょうが、本を読むとき、文字を追わず白地を見る人はいません。映画館で映像を観ずに白スクリーンを見ようとする人はいません。
しかし、その白地や白スクリーンに当たるものが、真我であり、仏性であり、本来の面目なのです。そしてそれこそが、私たち修行者が求めているものなのです。それがなぜ自覚できないのか。それは夾雑物(きょうざつぶつ・現象・比喩としての映像)に惑(まど)わされて、ソレをダイレクトに知ることができないでいるのです。ソレをソレとして知る、ダイレクトに知る・・・そこに臨済先生が私たちを導こうとしていることは、間違いありません。
今回はこの辺で。また、お会いしましょう。