【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆28

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「仏に逢えば仏を殺す」?

 

①読み下し文

道流(どうる)、出家児は且(しばら)く学道を要す。祇(た)だ山僧の如きは、往日曾(か)つて毘尼(びに)の中に向(お)いて心を留(と)め、亦(ま)た曾つて経論を尋討(じんとう)す。後、方(まさ)に是れ済世(さいせい)の薬、表顕(ひょうけん)の説なることを知って、遂(つい)に乃(すなわ)ち一時に抛却(ほうきゃく)して、即ち道を訪(と)い禅に参ず。

後、大善知識に遇(あ)いて、方乃(はじめ)て道眼分明(どうげんぶんみょう)にして、始めて天下の老和尚を識得して其(そ)の邪正(じゃせい)を知る。

是(こ)れ娘生下(じょうしょうげ)にして便(すなわ)ち会(え)するにあらず、還(かえ)って是れ体究練磨(たいきゅうれんま)して、一朝に自ら省(しょう)す。

道流、你如法(なんじにょほう)に見解(けんげ)せんと欲得(ほっ)すれば、但(た)だ人惑(にんわく)を受くること莫(なか)れ。裏(うち)に向い外に向って、逢著(ほうじゃく)すれば便ち殺せ。

仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得(え)、物と拘(かかわ)らず、透脱自在なり。

 

②私訳

諸君、出家者は仏道を学ぶことは必要だ。しかし、ワシはかつて戒律を守り、経論を研究していた。後にこれらの経論は人民救済の薬、表看板の教えであることを知って、いっぺんに捨て去り、仏道を訪ね、禅に参ずるようになったのだ。

後に黄檗禅師という大和尚にめぐり逢って、はじめて法の眼が開かれ、天下の老和尚の善し悪しもわかるようになった。

これは生まれたままの姿で、そうなったのではない。体を使って坐禅し、探究し、練り上げ、磨き上げて、ある朝悟ったのだ。

諸君、法を知りたかったら、ただ他人の言葉に惑わされないことだ。内に向かっても外に向かっても、居着いたらその念を殺してしまえ。

仏(の念)に居着いたら、仏(の念)を殺し、祖(の念)に居着いたら、祖(の念)を殺し、羅漢(の念)に居着いたら、羅漢(の念)を殺し、父母(の念)に居着いたら、父母(の念)を殺し、親類(の念)に居着いたら、親類(の念)を殺し、初めて現象世界の軛(くびき)が解かれ、そこから脱出できる。そうなると、現象世界に巻き込まれたりせず、現象世界への出入りも自由自在となる。

 

現場検証及び解説

 

全体を通して読むと、言葉による仏道修行を否定し、坐禅を通じての修行を推奨している言説です。前半の文章は、臨済先生の青年時代の体験です。まず、言葉で仏教を学び、その限界を感じます。毘尼(びに)というのは戒律のこと、経論というのはお経のことです。

また、済世(さいせい)というのは「済世救民」、人民の救済のことです。表顕(ひょうけん)の説とは、「表向きの説明」ということです。

意訳すると「戒律を守ってお経を勉強していたが、これらの仏教は人民救済の薬で、表向きの説明である」ということを知った、ということです。この文章の含みには、「言葉の仏教は人民を慰めるためのものだ」「本物の仏教は言葉には表されていないものがあるはずだ」ということだと思います。

その直感は正しいと思います。ただ、微妙に庶民を睥睨(へいげい)しているというか、悟りの世界を特権的なものに仕立て上げようとしているというのか・・・。そのようなニュアンスがあるのが気になります。禅を語る人の言説の中に、時折同じものを感じますが、私はそのあたりがどうも好きになれません。お釈迦さまの仏教には、そのような区別はないように思うのです。

それはともかく、臨済先生は学問を捨てて旅に出、運よく黄檗和尚に出会い、そこで覚醒します。覚醒すると、仏教を語る和尚の良し悪しもわかったのです。裏を返せば、それ以前はどの和尚が本物か見分けがつかなかった、ということです。仏道修行の難しさはこういうところにもあります。

現代に置き換えると、何を読むか何を視聴するか、誰に会いに行くか、誰に習うか、ですね。私たちの時代は臨済先生の時代よりも、ずっと情報が豊富で生活に余裕がありますから、その点は有利だと思います。ただ、情報が多過ぎてかえって迷うかもしれませんし、余裕がありすぎて真剣味に欠ける点はあるかと思います。

私の経験から言うと、興味の趣くままに、いろんなものを読んだり、視聴したりするといいと思います。自分が面白いと思うものを選ぶべきです。面白がれないものは、身になりません。

私は、禅からテーラワーダ仏教に向かい、ヒンズー教、非二元の教え、スピリチュアル、キリスト教という具合で、参考になりそうなものは、なんでも興味をもって読んでみました。本だけでなく、ユウチューブの動画でも、ピンときたものは視聴してみました。そこから新たな覚者を見つけて、わかってくることもたくさんありました。

人には、元々真偽を見分ける能力が備わっていますから、真剣に見たり聴いたり会ったり読んだりすれば、そうそう騙されることはありません。騙されるのは、真剣さが足りない場合、誠実さがない場合、安直な方法で得してやろうというやましい欲望がある場合です。

修行が進まない場合は、そのあたりを見直してみるといいのです。しかし、自分を見直すことは痛みを伴いますから、しんどい作業ではあります。

 

これは生まれたままの姿で、そうなったのではない。体を使って坐禅し、探究し、練り上げ、磨き上げて、ある朝悟ったのだ。

霊性が生まれつき高い人がいます。そのような人は何の努力もなく、スッと悟ってしまいます。私たち凡人からすると「ズルいなあ」という感じですが、そういうもののようです。

臨済先生は、生来の霊性がそれほど高い方ではなかったようです。勉強もとことんやってみたが、肝心なところはわからなかった。黄檗和尚に出会い、坐禅修行をした結果、悟ったのだ、ということです。

体究練磨という四文字に、臨済先生の努力が表現されています。「臨済録」では黄檗和尚に三度棒で打たれ、その後大愚和尚の下で悟ったということになっていますが、その前段階での修行があってこその大悟だったのでしょう。

 

諸君、法を知りたかったら、ただ他人の言葉に惑わされないことだ。内に向かっても外に向かっても、居着いたらその念を殺してしまえ。

「他人の言葉」というのには「お経」も含まれているでしょう。どんなに権威のあるお経でも、その言葉が人の中で正しく作用しないと、意味がありません。誤解されてしまう可能性だってあるでしょう。言葉は諸刃の剣なのです。

言葉より確かなものが、「心の観察」です。「念に気づく」ことです。このことにより、修行が進んでいきます。仏教書を読むよりも頼りになる方法です。

ただ「念を殺す」という方法は同意できません。臨済先生が「殺す」というような恐ろしい言葉で、何を言おうとしているのか、実はハッキリとはわからないのですが、それが「念をなくそうとする」ということでしたら、「それは間違いです」としかいいようがありません。

正しくは「念が出たらそれを観察し見守りなさい」です。「念を殺す」「念をなくそうとする」は念をかえって強くしてしまいます。やってみればわかります。

「他人の言葉に惑わされるな」という臨済先生の言葉を、そのままこの箇所に適用します。皆さん、「念を殺す」に惑わされないでください。インパクトのある言葉ですので、影響を受けがちですが、明らかに間違った方法です。私の言葉に惑わされそうになっている方は、ご自身で試してみてその真偽を明らかにしてください。それが一番確かな方法です。

 

念が少なくなれば、現象世界に巻き込まれなくなるというのは確かだと思います。その先、それが進むと現象世界に関わったり関わらなかったり、自由自在にできるのでしょう。これはかなり難度の高い境地でしょう。このあたりは想像で語っています。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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