【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆25

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「これが本当の超能力だ!」

 

①読み下し文

你(なんじ)道(い)う、仏に六通(ろくつう)有り、是れ不可思議なりと。一切の諸天、神仙、阿修羅(あしゅら)、大力鬼(だいりきき)も亦た神通有り。応(まさ)に是れ仏なるべきや。

道流(どうる)、錯(あやま)ること莫(なか)れ。祇(た)だ阿修羅の天帝釈(てんたいしゃく)と戦うが如きは、戦敗れて八万四千の眷属(けんぞく)を領(りょう)して、藕糸(ぐうし)の孔中(こうちゅう)に入って蔵(かく)る。是れ聖なること莫(な)きや。山僧が挙(こ)する所の如きは、皆な是れ業通依通(ごっつうえつう)なり。

夫れ仏の六通の如きは然(しか)らず。色界(しきかい)に入って色惑(しきわく)を被(こうむ)らず、声界(しょうかい)に入って声惑を被らず、香界に入って香惑を被らず、味界に入って味惑を被らず、触界(そくかい)に入って触惑を被らず、法界(ほっかい)に入って法惑を被らず。所以(ゆえ)に六種の色声香味触法の皆な是れ空相なるに達すれば、此の無依(むい)の道人を繋縛(けばく)すること能わず。

是れ五蘊(ごうん)の漏質(ろしつ)なりと雖(いえど)も、便(すなわ)ち是れ地行(じぎょう)の神通なり。

 

②私訳

諸君は「仏陀には6つの神通力がある。これは不思議ものだ」と言う。しかし一切の神々、たとえば神仙、阿修羅、大力鬼にも神通力がある。これらは仏陀だろうか。

諸君、間違ってはならぬ。阿修羅王は天帝釈と戦ったとき、敗れて八万四千の家来を連れて、蓮の糸の中に隠れたというぞ。これは仏陀と同じ聖なる神通力ではないのか。今言ったようなものは、宿業による神通力や秘薬による神通力にすぎない。

仏陀の本当の神通力はそのようなものではない。

見て見たものに惑わされず、聞いて聞いたものに惑わされず、嗅いで嗅ぐものに惑わされず、味わって味わったものに惑わされず、触れて触れたものに惑わされず、思考して思考したものに惑わされない。この六種類、色声香味触法が実態のないものと徹見すれば、この何ものにも依存しない人(真我=仏性=本来の面目)を束縛することはできない。

真我こそが、煩悩が起こる肉体のなかにありながら、そのままで大地を行く神通力の人なのだ。

 

現場検証及び解説

 

修行する動機のひとつに、超能力(神通力)を得たいというのがあります。宙に浮く、触れずに物を動かす、予知能力を持つ等々です。そのような能力を得て、他人を思いのまま動かしたい、驚かせたい、睥睨(へいげい)したい、という良からぬ欲望で修行するのです。

そのような能力に憧れる気持ちはわかります。人は超人になりたがります。特殊な修行を行えば超能力者になれそうな気がして、修行を始める若者もいたのでしょう。そういった者を諌(いさ)める内容が、この段では語られています。

 

見て見たものに惑わされず、聞いて聞いたものに惑わされず、嗅いで嗅ぐものに惑わされず、味わって味わったものに惑わされず、触れて触れたものに惑わされず、意識して意識したものに惑わされない。

仏陀の本当の超能力は上記のようなものだ、と臨済先生は言います。

「見て見たものに惑わされず」とは、どのような状況でしょうか。まず、逆を考えてみましょう。「見て見たものに惑わされる」状況です。男性なら「女性の裸」でしょうか(〃▽〃)ポッ。これは抗しがたく「見入ってしまい」次に「惑わされます」。自分の奥さんに「見入ってしまう」分には問題ありませんが、他人の奥さんに見入ってしまい、惑いだすと問題です。

もうひとつ検討してみましょう。「味わって味わったものに惑わされず」。これは酒を思い浮かべるといいでしょう。「酒を嗜(たしな)む」うちは問題ありません(修行者は戒に触れるのでNGですが、この場合は一般人)。しかし、杯を重ねるうちに問題になってきます。酒を飲んでいるつもりが、酒に飲まれてしまうのです。

このような状況を毎日続けていると、アルコール依存症になってしまいます。酒の奴隷になってしまいます。

以上のように、私たちは「見ること」「聞くこと」「嗅ぐこと」「味わうこと」「触れること」「思考すること」を日常的に、ひっきりなしに行っています。それをしないで生きることは不可能です。それを一切するな、と臨済先生は言っているわけではありません。

「見ること」はOKです。それは生活に必要です。見ずに生活することはできません。しかし、見ることを追い、見ることに執着し、見ることに耽ることはNGです。なぜなら、そうしているうちに「見ること」に惑いだすからです。「見ること」中毒、「見ること」依存症になってしまいます。

多かれ少なかれ、皆さんも経験していることだと思います。私もそうでしたし、今でもそういうことは当然あります。ついつい追いかけてしまって、辞め時がわからない・・・スマホをいじっているときなど、そうですね。

瞑想修行をしていると、こういった一連の過程に気づくようになります。

「対象を見て」➡「対象をつかんで」➡「対象に執着して」➡「対象に飽きて」➡「他の対象を探して」➡「対象を見つけて」というようなことを、私たちは繰り返しています。そして、無意識のうちにその行為が、中毒になってしまっています。

瞑想修行の初期段階で気づくのは、こういった中毒症状です。あまり、楽しい経験とは言えないものです。この中毒症状こそが、私たちに困難をもたらしているのだ、という理解が起こらなければ、瞑想修行は中途半端なものに終わってしまうでしょう。

何とかして、この中毒から脱したいという気持ちがなければ、続けることが難しいかもしれません。しかし、継続していくと、上記のような一連の過程が、スローモーションのように気づきやすくなってきて、ああそういうことかという理解が自然に起こります。

理解が起こり、さらに瞑想修行を続けていくと、「見ている」と「それに気づいている」の距離が広がるような感じになって、一連の過程が徐々に起こらなくなっていきます。つまり、初期段階では、上記のような過程が自動化していて、「気づいてはいるが、過程は進んでしまう。留めることは困難」ですが、それがある段階に達すると「気づきがあり、過程が進まない。あるいは留められる」状態になってきます。

気づきの光を当てることによって、過程の力が弱くなる、という感じです。

さて、本文に戻りましょう。「見たものに惑わされない」というのは、「見ている」ことと「それに気づいている」との距離が長いということです。距離が長いほど、執着の過程が進みにくくなります。そして、気づいている側におそらく無依の道人(真我=仏性=本来の面目)がいます。急いで付け加えますが、別人格がいるわけではありません。

俗っぽく言えば、「真我が個我になり、個我が見て、見ることに惑わされ、迷いを深くしていき」ます。それらは一連の過程に過ぎず、個別の何かがあるわけではありません。

 

真我こそが、煩悩が起こる肉体のなかにありながら、そのままで大地を行く神通力の人なのだ。

肉体を動かしている本体は真我です。しかし、私たちはそれを勘違いして、肉体が肉体を動かしていると思っています。真我は対象化できないので、科学ではとらえられません。なので、いつまでも発見できないのです。覚者は真我を対象化せず、ダイレクトに知った人です。

臨済先生は覚者ですから、それを知っています。その臨済先生が「真我こそが、私たちを動かしている本当の主体で、それこそが超能力だ」と言っています。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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