【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆21

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、「本物の禅者は祖仏を罵ることを恐れない」です。

 

①読み下し文

道流(どうる)、你(なんじ)は這(こ)の一般の老師の口裏(くり)の語を取って、真道なりと為是(なし)、是れ善知識不思議なり、我れは是れ凡夫心、敢(あ)えて他(か)の老宿(ろうしゅく)を測度(そくたく)せず、と。

瞎屢生(かつるせい)、你一生祇(た)だ這箇(しゃこ)の見解を作(な)して、這(こ)の一双の眼(まなこ)を辜負(こふ)す。冷噤噤地(れいきんきんじ)なること、凍凌(とうりょう)上の驢駒(ろく)の如くに相似たり。我れ敢えて善知識を毀(そし)らず、口業(くごう)を生ぜんことを怕(おそ)る、と。

道流、夫(そ)れ大善知識にして、始めて敢えて仏を毀り祖を毀り、天下を是非(ぜひ)し、三蔵教を排斥し、諸(もろもろ)の小児(しょうに)を罵辱(めじょく)して、逆順の中に向(お)いて人を覓(もと)む。

所以(ゆえ)に我れ十二年中に於(お)いて、一箇(いっこ)の業性(ごっしょう)を求むるに、芥子許(けしばか)りの如くも得(う)べからず。

若(も)し新婦子(しんぷす)の禅師に似たらば、便即(すなわ)ち院を趁(お)い出されて、飯を与えて喫(きっ)せしめられず、不安不楽なることを怕(おそ)れん。

古(いにしえ)よりの先輩は、到る処に人尽(ことごと)く肯(うけが)わば、什麼(なに)を作(な)すにか堪(た)えん。所以に師子一吼(いっく)すれば、野干脳裂(やかんのうれつ)す。

 

②私訳

諸君は世間一般の老師方の言うことを真の道だと思ってしまう。「ああ、ありがたい摩訶不思議な教えだ。私のような凡夫には計り知れぬものだ」と言う。めくら野郎!

諸君は一生このような考えで、その両目を無駄にするのか。口もきけないほどおびえている様は、まるで氷の上を歩くロバのようだぞ。諸君は「私は善知識人の悪口は言わない。口の禍(わざわい)が恐ろしいから」と言う。

諸君、真正の善知識人であってこそ、初めて仏をそしり、祖師をそしり、天下を論じ、すべての仏典を排斥できるのだ。そして、未熟ものを罵倒し、ときに逆らい、ときに順って人を導く。

だからワシはこの12年間、芥子粒ほどの罪も作らなかった。

もし花嫁さんのような禅師なら、(ワシのように振舞ったとたんに)寺を追い出されて飯も食わせてもらえず、オドオドして不安なことだろう。

昔の修行僧は、どこへ行っても人に不審がられ、追い帰された。しかし、それで貴重な体験をした。もし、どこででも受け入れられたら、どうしてそういう体験ができようか。

獅子が吠えれば、狼の頭は破裂するというではないか。

 

現場検証及び解説

前回の「心を住して静を看」以下の文章で、臨済先生は祖師の言葉を引用し、ある修行法を批判しておられました。私は解説で「よくわからない」としましたが、ひとつ見落としていました。岩波文庫の入谷先生の注によれば、この修行法は「北宗禅を批判した有名な言葉」らしいです。

臨済先生は南宗禅ですから、北宗禅を批判されたわけです。しかしながら、南宗禅の開祖、慧能の言説「そもそも磨くべき身体も、払うべき煩悩、本来とらわれるべきものは何もない」では、どう修行していいか皆目見当がつきません。

南宗禅の立場から北宗禅を批判するのはいいとして、それならば代案を提示すべきだったと、私は思います。

 

この段においても、不立文字の立場から、文字仏教に対する批判が目を引きます。不立文字は言葉の国、中国だからこその言説のような気もします。すなわち、言葉が横行し過ぎて、それに囚われることが多かったせいで、不立文字を強調せざるをえなかったのではないか。

不立文字は、例えれば、おしゃべりが過ぎる子どもに対して「うるさい!」と怒鳴るようなもの、黙りがちな子どもには「少しおしゃべりしてみては?」というべきではないでしょうか。

 

「ああ、ありがたい摩訶不思議な教えだ。私のような凡夫には計り知れぬものだ」

確かに「仏教を自分で確かめぬ」うちは、仏教の言説は摩訶不思議に響きます。その響きの中に人は「何か自分にはうかがい知れない、深い意味があるにちがいない」と想像してしまいます。そして、その想像に沿って修行していくと、間違った方向に行ってしまいます。

このような修行は知識は増えますが、一向に効果がありません。効果がなくても、知識を周囲にひけらかすことで、何かが進んでいるような錯覚が生まれます。そのような人物は、実感としての効果の代わりに、無意識のうちに、集団の中での地位を充ててしまいます。ありていに言えば、威張りだすのです。そうならないよう、注意して慎重に修行を進めるべきです。自戒の念をもって、そう思います。

 

諸君は一生このような考えで、その両目を無駄にするのか。

文字に頼らないで仏教を学ぶには、どうしたらいいのでしょうか。臨済先生は「両目を無駄にする」というような刺激的な言葉で、何を示唆されているのでしょうか。私は「自分で観察して確かめろ」ということだと思います。幾巻ものお経を読むよりも、「心の観察」をすることの方が大事です。それが仏教修行の基本です。そして、観察結果を確かめる意味で、文献を読むのはOKだと思います。「観察なしのお経読み」がまずいのです。

 

臨済先生の罵詈雑言が炸裂しています。しかし、注意して見てみると、善知識人にも二種類あると言われているようです。

言葉だけの仏教を報ずるエセ善知識人は、祖仏を罵ることを恐れます。心の観察をせずに、ダイレクトに仏性を知る経験がないからです。言葉で学んだ仏教は言葉を恐れます。

それに対して、心の観察によりダイレクトに仏性を知った者は、言葉を恐れません。祖師であれ、お釈迦さまであれ、それは言葉にすぎないことを知っているからです。尊敬がないわけではありません。しかし、尊敬する対象がやや違います。

祖師という個人ではなく、祖師たらしめている真我を尊敬します。お釈迦さまという個人ではなく、お釈迦さまたらしめている真我を尊敬するのです。

真我は覚者であろうが凡夫であろうが、それを支えている「生命エネルギーのようなもの」です。そういう意味では、すべての衆生(生き物)が尊敬の対象になります。

 

だからワシはこの12年間、芥子粒ほどの罪も作らなかった。

「罪作り」というのは、前回お話したように、「心のクセ作り」のことです。普通私たちは、クセを作りながら行為してしまいます。それは未来に対して計画を立て、それに基づいて行為し、うまくいけば喜び、失敗すれば悔やむ、からです。その一連の慮(おもんばか)りがクセになり、そのクセが心の轍(わだち)になって、新たな思慮が生まれます。一種の悪循環なのです。

それを臨済先生は、全く作らなかったとおっしゃいます。凡人からはうかがい知れないイメージです。即今を保ち、一瞬の思念は生まれるものの、後を引かず直ぐに消える、という具合かと想像します。「行為を前もって図る」のではなく、「行為が自然に起こる」という感じです。だからといって不適切な行為にはなりません。反対に、自然に行為されながら、しかも的確なのです。

別の角度からこのことを言えば、「心の中に行為者はいない」という感覚です。「心の中に個人はいない」ということ、空っぽであるからこそ、そこに真我(本来の面目)が自由自在にはたらけるのです。

実は、行為に個我は必要ないのです。個我中心の生き方をしている人には、個我は必要な司令官に思えます。しかし、本当は司令官が作戦(行為)の邪魔をしているのです。司令官抜きの方がうまくいくという話です。

もちろん、これは運転中の運転手に「ハンドルから手を離しなさい」と言うことに似て、なかなか難しいことなのですが。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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