【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆20

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、修行に努力は通用しない?

 

①読み下し文

你(なんじ)諸方に言道(いう)、修有り証有りと。錯(あやま)ること莫(なか)れ。設(たと)い修し得る者有るも、皆な是れ生死(しょうじ)の業(わざ)なり。

你言う、六度万行斉(ろくどまんぎょうひと)しく修すと。我れ見るに皆な是れ造業(ぞうごう)。仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業。菩薩を求むるも亦た是れ造業、看経(かんきん)看教も亦た是れ造業。

仏と祖師とは是れ無事の人なり。所以(ゆえ)に有漏有為(うろうい)も、無漏無為(むろむい)も、清浄の業為(た)り。

一般の瞎禿子(かくとくす)有って、飽(あ)くまで飯を喫し了(おわ)って、便(すなわ)ち坐禅勧行(かんぎょう)し、念漏(ねんろ)を把捉(はそく)して放起(ほうき)せしめず、喧(けん)を厭(いと)い静(せい)を求む、是れ外道(げどう)の法なり。

祖師云く、你若し心を住して静を看(み)、心を挙(こ)して外に照らし、心を摂(せっ)して内に澄(す)ましめ、心を凝(こ)らして定(じょう)に入らば、是(かく)の如きの流(たぐい)は皆な是れ造作(ぞうさ)なりと。

是れ你如今与麼(いまよも)に聴法する底(てい)の人、作麼生(そもさん)か他(かれ)を修し他を証し他を荘厳(しょうごん)せんと擬(ぎ)す。

渠(かれ)は且(しばら)く是れ修(し得)る底の物ならず、是れ荘厳し得る底の物ならず。若し他をして荘厳せしむれば、一切の物を即ち荘厳し得ん。你且く錯ること莫れ。

 

②私訳

世間では「修行して悟る」と言う。勘違いしてはならん。

たとえ「修行して得た」という者がいても、それは迷いにすぎない。六度万行を全部学んだという者がいても、ワシに言わせれば皆これ罪作り(条件付け)なのだ。

仏を求め法を求める行為は、地獄の罪作り(条件付け)である。菩薩を求めるのも罪作り、経典を読むのも罪作りだ。

仏とか祖師とかいうのは、無事(条件付けをしない)人のことだ。

だから、時があり事を為すのも、時がなく無為であるのも、清浄であろうとする、罪作りなのだ。

世間の坊主どもは、たらふく飯を食い、坐禅瞑想し、思念を漏らさず捉え、さらに起こらないようにし、喧騒を避け寂静を好む。これは道を外れた修行である。

祖師は言った。「静止した心で看、起した心で外を照らし、調えた心で内を澄ましめ、集中した心で禅定に入ろうとする。このような方法はすべて罪作り」と。

只今即今、聴法しているお前(真我)、すなわち彼(真我)をどのように修行させ、悟らせ、荘厳にすることができようか。

真我は修行しうるモノではない。真我は荘厳にしうるモノではない。

もし彼(真我)を荘厳にできるなら、すべては即ち荘厳になる。

間違ってはならない。

 

現場検証及び解説

世間では「修行して悟る」と言う。勘違いしてはならん。

瞑想にしろ坐禅にしろ、普通は「修行して強い自分になりたい」などと決意して始めるものです。私もそうでした。しかし禅は無情にも、「修行しても何にもならんぞ」とか「お前一人の境涯などどうでもよいわ」などと言い放って、高笑いします。

私は「なんてふざけたことをいう人達なんだ!・・・それとも何か深い意味があるのだろうか?」と、長い間、腹を立てたり、首を傾げたりしていました。

今どう思っているかというと、こうです。

「禅の言うことに、ちゃんとした理はある。しかし、説明不足だ。このままの文章では誰もわからない」

なので、不肖ながら私が説明を試みています。もちろん、「禅は説明では伝わらない、直観に訴えないとダメなのだ」という意見もあるでしょう。そういう側面は確かにあると思います。臨済先生の法話を直接聞くことができれば、文章で読む以上のインパクトと、理解が生まれただろうことは想像できます。

しかし、私たちにそれは望むことはできません。それならば、テキストに沿って、できるだけ理解しようとし、説明してみることは、意味があることだと思います。

「修行して悟る」が法に背くのは、そこに時間の経過、因果関係が生じるからです。即今がすなわち法なのだ、という話は何度もしました。即今は無時空間のもの、時空間に垂直に立つなにものか、です。時間、空間は関係ありません。「修行したから悟れるよね?」ということは成り立たないのです。なぜなら、悟るということは、即今(無時空間)を知るということだからです。

世間一般では「努力して○○を達成する」という方程式は成り立ちますが、仏教を学ぶには少しルールの変更が必要です。なぜなら、「努力して○○を達成する」という意識の中には、未来に対する期待が忍んでおり、それは即今に背くゆえに、かえってダメなのです。

そして、急いで付け加えておきますが、修行は全く必要ないのだ、というのともちょっと違います。ここは微妙なところです。

 

仏を求め法を求める行為は、地獄の罪作り(条件付け)である。

罪作り(条件付け)という言葉がポイントです。読み下し文では、造業(ぞうごう)。

「努力して○○を達成する」はすなわち、「努力という因」があり、それに対して「○○という果」がある、ということです。人は普段、この因果を繰り返して生きています。「金が必要だから働く」「腹が減ったから飯を食う」「○○が欲しいから店頭に並ぶ」等々。

必要や欲望があり、それに向かう努力があり、それを得た満足があり、そしてまた、必要や欲望がでてきて・・・。そのリフレインの中で生きています。きりがありません。それは人の心の中にクセとなって残ってしまいます。この「心のクセ作り」が臨済先生の言う「造業」、私訳の「罪作り」「条件付け」です。因果の足跡を色濃く残すような生き方を非難しているのです。

したがって、それが世俗的な職業であろうと、仏教修行であろうと同じことです。造業しないで働く庶民もいれば、造業して修行する学僧もいるのです。何をやるかは問題ではありません。どのようにそれを行うかが問題なのです。因果に囚われずに行為するのが、法に叶うやり方なのです。

臨済先生が強調しているのは、「心のクセ」を付けてしまうような仏教修行はするなよ、ということです。修行そのものを否定しているわけではありません。

「心のクセ」を付けてしまう仏教修行とは、「○○したら○○になる」というような方程式を持ち、効果を期待してやる仏教修行です。方程式なしに「ただする」仏教修行がいいのです。しかし、それはなかなか難しいことです。

また、これは仏教修行だけではなく、世俗的な職業にもいえることです。「課長になりたい」と思って働けば大変苦しいのです。「ただ働く」はたらきかたがベストです。結果、課長になるのは問題ありません。ただ、何も期待せずに、集団に属しているのは難しいことです。簡単なことではありません。

「条件付け」というのはヒンズー教の覚者が言っている言葉です。こちらの方が現代風で、何だろう?と意味を探る気にさせられます。「造業」だと特殊用語めいて、取っつきにくい感じがあります。しかし、業はカルマのことです。カルマとは「行為の結果として蓄積されるもの」今風に言えば「心のクセ」です。

 

「静止した心で看、起した心で外を照らし、調えた心で内を澄ましめ、集中した心で禅定に入ろうとする。このような方法はすべて罪作り」

教科書通りのいい修行のように思います。どこがダメなのでしょうか。禅はどういうわけか、折り目正しい人物像を好まず、破天荒な人物を愛するようなところがあります。覚者然とした人物を穴倉禅と言って、大変嫌います。

上記のような方法も、期待をもってやってしまうと失敗するかもしれません。しかし、「では、どうすればいいのか」は語られません。僧堂の厳しい生活が基本にあって、このような法話があるのかもしれません。それがセットになって始めて成り立つ言説なのかもしれません。

 

是れ你如今与麼(いまよも)に聴法する底(てい)の人、作麼生(そもさん)か他(かれ)を修し他を証し他を荘厳(しょうごん)せんと擬(ぎ)す。

渠(かれ)は且(しばら)く是れ修(し得)る底の物ならず、

上記の文章で注目してほしいのは、「他(かれ)」と「渠(かれ)」です。読み下し文では、どちらも「かれ」とルビが振ってあります。私訳ではどちらも「真我」と訳しました。

「法を聴いている人」が「他(かれ)」だというわけです。ですから、これはあきらかに個人を指しているのではありません。法を聴いている個人ではない。では、誰が法を聴いているのでしょうか。他(かれ)が法を聴いています。A僧、B僧がそれぞれ法を聴いているのではない。A僧、B僧を通じて「ただ独りの他(かれ)」が法を聴いているのです。

他(かれ)と表記されるのは、自と対比させた他です。それは、自からすると他のように感じられますが、別のものではありません。いわば自即他。自と他は同じものです。私たちが自分だと思っているものは、実は他(かれ)であるという話・・・。受け入れがたいかのしれませんが、それが仏教の主張であり、真実なのです。

そして他(かれ)は渠(かれ)とも表現されます。渠(かれ)というのは、親分という意味です。渠(かれ)は独りです。とはいえ、人格をもった何者かではありません。生命エネルギーのようなものです。ようなもの、と言葉を濁すのは、エネルギーではないからです。何なのかはわかりません。何しろ「対象化できないもの」ですから、表現のしようがありません。近似なものとして仮に「生命エネルギー」と言ってみているだけです。

他(かれ)と渠(かれ)は、真我という「表現できないもの」に接近を試みる言葉として、大変興味深いものだと思います。それを説明したかったのですが、皆さんを余計に混乱させてしまっているかもしれません。言い募るのはこれくらいにしておきます。

 

今回はこの辺で。これに懲(こり)りずに、また、お会いしましょう(笑)。

 

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