【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆17

2023/09/08
 

 

こんにちは!

今回は、臨済禅師、ひょっとして、たとえ好き?

 

①読み下し文

師、衆に示して云く、如今(いま)の学道の人は、且(しばら)く自ら信ぜんことを要(ほっ)す。外に向って覓(もと)むること莫(なか)れ。総(す)べて他(か)の閑塵境(かんじんきょう)に上(のぼ)って、都(す)べて邪正を弁ぜず。祇(た)だ祖有り仏有るが如きは、皆な是れ教迹(きょうしゃく)中の事なり。

人有って一句子(いっくす)の語を拈起(ねんき)して、或(あるい)は隠顕(おんけん)の中より出(い)づれば、便即(すなわ)ち疑い生じて、天を照らし地を照らし、傍家(ぼうけ)に尋問(じんもん)して、也(ま)た太(はなは)だ忙然(ぼうぜん)たり。

大丈夫児、祗麼(ひたす)ら主を論じ賊を論じ、是(ぜ)を論じ非(ひ)を論じ、色を論じ財を論じ、論説閑話して日を過ごすこと莫れ。

山僧が此間(すかん)には、僧俗を論ぜず、但有(あらゆ)る来者は、尽(ことごと)く伊(かれ)を識得す。任(たと)い伊(かれ)甚(いず)れの処に向って出(い)で来たるも、但有る声名文句(しょうみょうもんく)は、皆な是れ夢幻なり。

却(かえ)って境に乗(じょう)ずる底の人を見るに、是れ諸仏の玄旨(げんし)なり。仏境は自ら我れは是れ仏境なりと称すること能(あた)わず、還(かえ)って是れ這箇(この)無依(むい)の道人(どうじん)、境に乗じて出で来たる。

若(も)し人(にん)有って出で来たって、我れに仏を求むれば、我れ即ち清浄の境に応じて出づ。人有って我れに菩薩を[求むれ]ば、我れ即ち慈悲の境に応じて出づ。人有って我れに菩提を[求むれ]ば、我れ即ち浄妙の境に応じて出づ。人有って我れに涅槃を[求むれ]ば、我即ち寂静(じゃくじょう)の境に応じて出づ。

境は即ち万般差別(ばんぱんさべつ)すれども、人は即ち別ならず。所以(ゆえ)に物に応じて形を現じ、水中の月の如し。

 

②私訳

臨済禅師は言われた。

今の学僧は、自分を信じることが必要だ。外に向かって求めるな。そんなことをしても、他人の古びた言葉に引っかかって、ものの良し悪しもわからなくなるぞ。祖師だの仏だの言うのは、ただ教えをなぞっているだけだ。

誰かが専門用語を持ち出して、それをちらつかせたりしようものなら、諸君はすぐに頭を悩ませ、天を仰いだり俯いたりする。あちこち尋ねまわり、バタバタする。

まともな修行者なら、政治や事件を論じたり、女や金の話をして、無駄に日を過ごしてはならぬ。

ワシは僧であろうと在家であろうと、訪問する者のことはすべて、その個我を見抜くのだ。たとえ個我がどんなところで何か言おうとも、それは皆夢まぼろしなのだ。かえってその場にはたらいている人(真我)が、仏性の本質なのだ。

「仏のはたらき」は自分で名のりはしない。この「なにものにも依らぬ人」は「はたらき」のなかに出てくるのだ。

「なにものにも依らぬ人」」がワシに仏を求めれば、ワシは清浄をもってそれに応じる。

「なにものにも依らぬ人」がワシに菩薩を求めれば、ワシは慈悲をもってそれに応じる。

「なにものにも依らぬ人」がワシに菩提を求めれば、ワシは浄妙をもってそれに応じる。

「なにものにも依らぬ人」がワシに涅槃を求めれば、ワシは寂静をもってそれに応じる。

「なにものにも依らぬ人」のはたらきは千差万別だが、そこにはたらく人(なにものにも依らぬ人)は、同じ独りの人なのだ。

物に応じて形があらわれる。それは水に映る月のようなものだ。

 

現場検証及び解説

 

禅仏教の文献では、言葉を定義して正確に使う、ということをやりません。その点にはあまり頓着しないで、むしろ言葉をきらびやかに、言葉の世界に遊んで、豊かに表現することに気を配っているように感じます。また、ストレートに語らず、比喩を多様します。良くも悪くも言葉を修飾的に用いるのです。

ですから、使用される言葉の意味が特定できずに、文章全体がわけのわからないものに感じられる、腑に落ちない体験をします。原因は、当時の中国人の言葉の使い方が修飾に偏り、正確さを犠牲にしているからです。これははっきりさせておきたいと思います。でないと、変に「深い意味があるのではないか」と勘ぐってしまうようなことになってしまいます。あるいは、自分の頭の悪さを呪います。

よく調べたわけではありませんが、日本の禅の理解に、ところどころ誤解があるように思います。それを正すなどという大それたことはしませんが、私見を述べることで、問題提起できればと考えています。

 

前半の文章は不立文字のテーマです。ここはお馴染みのフレーズだと思います。外に向かって求めるな、言葉に依って仏教を理解するな・・・と。

後半の文章が曲者です。ていねいに見ていきましょう。

山僧が此間(すかん)には、僧俗を論ぜず、但有(あらゆ)る来者は、尽(ことごと)く伊(かれ)を識得す。

ワシは僧であろうと在家であろうと、訪問する者のことはすべて、その個我を見抜くのだ。

読み下し文と私訳を並べました。

ここでは「伊」という語がポイントです。岩波文庫では「かれ」とルビが振られています。「伊」を漢和辞典で調べてみると、語源は「天下を治める人」ということでした。私は最初「これは真我のことだ」と勘違いしました。しかし、その意味で読み進むと、次のセンテンスの「伊(かれ)甚(いず)れの処に向って出(い)で来たるも云々」とつながりません。

そこで考え直して、「ああ、これは個我のことだ」とわかりました。そうすると、次の「伊(かれ)が言うことは皆、夢まぼろしだ」の言説とつながります。

 

かえってその場にはたらいている人(真我)が、仏性の本質なのだ。

「境に乗(じょう)ずる底の人」も厄介です。これを個人と解すると、「個人=仏性」ということになっておかしなことになります。ここは「真我=仏性」です。真我のことを「人」と表現しています。

そこで、個我と真我について、述べておきます。このシリーズで何度も語っているかもしれません。しかし、難解で誤解も起きやすい箇所だと思うので、繰り返します。

真我と個我は別モノではありません。というか、真我が肉体の中で個我化するのです。そして、個我は夢まぼろし(変化するもの)です。「いや、確固たる俺という存在がある」とおっしゃる方には、次のことをお勧めします。

●自分だと思っているもの(年齢・肩書・役職・容姿・家族・国籍など)が、永遠のものか限定的なものか、ご確認ください。それが永遠のものでなく、限定的なものならば、それは個我であり、残念ながら死すべき運命です。

●心を落ち着けて、心の中に現れる思考を観察してみてください(それには瞑想が一番です)。

私たちはしばしば「私の考え」と言い、その考えを否定されると傷つきます。しかし、私とそれほど密着している考えですが、よく観察すると刻々と変わっていきます。試しに、その「私の考え」とやらを頑なに守ってみてください。大変苦しいです。「私の考え」は変化します。「私と言っているソレ」も変化するのです。ソレは限定的なものです。個我は常に変化していて、私たちが思うほど一定していません。夢まぼろしと言っても過言ではありません。

それに対して真我は変化しません。永遠不変のものです。肉体とそれに伴う個我が死んでも、真我は死にません。私たち一人一人が、そのように生きています。私たちは個我を生きていると想像しながら、実は真我を生きているのです。たとえば、AさんとBさんは、肉体と個我のレベルで見る限り別モノです。しかし、真我のレベルで見ると同じモノです。

この状況を、宗教学者の井筒俊彦先生に習って表現すると、「AさんBさんが存在する」のではなく「存在がAさんBさんしている」のです。

あるいは、数学風に表現すると、分数のように、Aさんは「真我分のA」として、Bさんは「真我分のB」として存在している、というのが本当のところなのです。真我という分母から生まれたAさんは、成長するにつれ分母を忘れ、苦しい思いをします。無意識に分母たる真我を恋しがっています。苦は真我からの呼び声なのかもしれません。

このたとえにより、覚者を表現すると、覚者は「真我分の真我」ということでしょうか。

 

仏境は自ら我れは是れ仏境なりと称すること能(あた)わず、還(かえ)って是れ這箇(この)無依(むい)の道人(どうじん)、境に乗じて出で来たる。

「仏のはたらき」は自分で名のりはしない。この「なにものにも依らぬ人」は「はたらき」のなかに出てくるのだ。

読み下し文と私訳を並べました。

「仏境」「仏のはたらき」としているのは真我のことです。その真我を臨済先生は後の文章で「無依の道人」と言い換えています。同じ言葉を使わずに、様々に表現してみせることが、中国知識人の教養だったのかもしれませんが、断りもせず、どんどん新たな言葉を繰り出してくるので、後世の人間は油断ができません。

現象世界は、すべてのものがお互いに支え合って存在しています。何かに依って存在しています。単独で存在するものはありません。それに対して、真我=仏性は「なにものにも依らず存在する」ということで「無依の道人」です。しかし、この「人」も厄介な用語です。人とすると個人のように感じられるからです。「無依の道人」は真我ですから、人というよりもエネルギーのようなもの(エネルギーではありませんが)として表現し、擬人化するのは避けたほうが、本当はいいのですが・・・。

 

若(も)し人(にん)有って出で来たって、我れに仏を求むれば、我れ即ち清浄の境に応じて出づ。

この文章の「人」を個人と見てしまうと、わけがわからなくなります。この「人」は「無依の道人」のことです。「我れ」というのは臨済先生のことです。

普通に読むと、誰かが臨済先生に「仏になってもらえませんか?」と頼み、それに応じて先生が清浄な行いをする、というふうに読めます。しかし、それでは最後の「境は即ち万般差別(ばんぱんさべつ)すれども、人は即ち別ならず」とつながりません。「ああそうか、臨済先生にいろいろ頼んでいる人は、同じ人だってことか!」と理解したらアウトです。もう全くわけのわからない理解になってしまいます。

そうではなく、この場合の「人」も「無依の道人」のことです。「無依の道人(真我)の要請に応じて、私は様々にはたらくのだ」と臨済先生は言っています。このようにはたらけるのは、私の考えによると、「個我をよく知り、それを克服したから」のように思います。

個我の影響力が少なくなると、本来の主人である真我がはたらきやすくなるのだ、と思います。臨済先生は「真我=仏性=無依の道人」を獲得したわけではありません。本来の面目たる無依の道人に気づいただけです。

私たちにもそれは可能です。

 

物に応じて形があらわれる。それは水に映る月のようなものだ。

「無依の道人」が物に接触すると、形が現れます。しかし、それはあたかも「水に映る月」のようなものです。この場合、水が「無依の道人」の比喩、月が「個我を含む現象世界」の比喩です。

やれやれ、臨済先生のたとえ好きには苦労させられます。

 

今回はこの辺で。また、お会いしましょう。

 

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